【下谷②】下谷金杉町

町名:下谷金杉町

読み方:したやかなすぎちょう Shitaya-Kanasugichō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:不明

冠称:「下谷」

後身:下谷金杉上町下谷金杉下町

現町名:台東区下谷三丁目、入谷一・二丁目、竜泉二丁目、三ノ輪一丁目1~25番、竜泉二丁目20番、根岸三~五丁目

概要:江戸初期には金杉村から金杉町が分立し、後に2町に分かれたと考えられる。はじめ寺社奉行支配であったが、1745(延享2)年に町奉行支配となる。奥州街道裏道沿いの東西に細長い地域。

「金杉」とは江戸時代以前からあった古い地名だが、地名の由来は不明。鎌倉時代末の記録によると「金曽木」といい、それが金杉に変わったと推察される。「金曽木」は現在でも小学校名として残っている。江戸時代になると、奥州街道裏道沿いに町屋が造られていった。この町屋が下谷金杉上町下谷金杉下町である。


なお、そもそもの「金杉」について以下に詳述する。

「金杉」とは、戦国期に見える地名。『役帳』に、「一 飯倉弾正忠 拾一貫弐百八拾文 千束内 金杉分」と見える。江戸期は金杉村となる。

「金杉村」とは、江戸期~1889(明治22)年4月30日の村名。豊島郡峡田領のうち。はじめ幕府領、1646(正保3)年、東叡山寛永寺領となる。村内に浅草三島明神社領4石余があった。村高は『田園簿』では530石余で、田389石余・畑140石余。天保期(1831~1845年)では693石余となり、幕末期に及ぶ(天保郷帳、旧高旧領)。奥州街道裏道沿いに町屋が作られ、起立年代は不明であるが、「下谷金杉上町」、「下谷金杉下町」と称し、1745(延享2)年に町奉行支配となる(備考)。小名「根岸」は「根岸の里」といい、「呉竹の根岸の里は上野の山蔭にして幽趣あるが故にや都下の遊人多くはここに隠棲す」と『江戸名所』に記され、文人墨客の好んで住む所で、1835(天保6)年頃には文人の居宅が30戸もあった(新撰名所)。音無川と上野台との間の字杉崎に1753(宝暦3)年、上野寛永寺門主、輪王寺宮の隠居所の御隠殿が造られた。化政期(1804~1830年)の家数は230軒(新編武蔵)。用水は石神井用水を使用。神社では熊野社、第六天社、石稲荷社が勧請されており、寺院では円光寺、東源寺、西蔵寺、世尊寺、千手院、要伝寺、寿永寺、安楽寺、西念寺、永称寺等がある。時雨岡不動堂の傍らにあった御行の松は根岸の三木の1つで有名。明治元年11月5日(1868年12月18日)、東京府に所属。1878(明治11)年11月2日、東京府北豊島郡に所属。1872(明治5)年の戸数894・人口3,543(府志料)。1874(明治7)年、西蔵院内に根岸学校が開校。1889(明治22)年5月1日、石神井用水以南の地及び飛地の字千束は東京府東京市下谷区に編入。

1891(明治24)年、下谷上根岸町下谷中根岸町下谷下根岸町下谷金杉下町下谷坂本裏町となる。以北の地小名杉崎の一部、谷中前大下り、中下り、井戸田は1889(明治22)年5月1日、北豊島郡日暮里村と三河島村の大字となる。

「金杉」とは、1889(明治22)年5月1日~1932(昭和7)年9月30日の大字名。はじめ北豊島郡日暮里村、1913(大正2)年7月11日からは日暮里町の大字。1925(大正14)年3月18日、金杉に発生した大火は2,100余戸を焼失、その焼失面積は4万6,050余坪に及び、一望の焼野原と化した。この大火を契機に土地区画整理を実施。1927(昭和2)年、一部が「旭町一~三丁目」と改称。1932(昭和7)年10月1日、荒川区の成立に伴い、日暮里町の大字が廃止され、一、三・四丁目の一部となる。

また、もう一方は1889(明治22)年5月1日~1932(昭和7)年9月30日の大字名で、はじめ三河島村に属した。1920(大正9)年2月11日からは三河島町の大字。1932(昭和7)年10月1日、荒川区の成立に伴い、三河島町の大字が廃止され、三河島一丁目の一部となる。

影場所:下谷金杉町

撮影地:台東区根岸五丁目13番18号(なかや)

仲町 下谷原宿町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。