【本所②】本所花月町

町名:本所花月町

読み方:ほんじょかげつちょう Honjo-Kagetsuchō

区分:町丁

起立:1869(明治2)年

廃止:1891(明治24)年

冠称:「本所」

後身:本所太平町一・二丁目又は柳島町

現町名:墨田区太平一~三丁目又は四丁目か

概要:非常に不思議な町である。町は、年代によって、改称、移動、拡縮、他町と合併等をしたりする。それは解ってはいるが、ただ1つ言えるのは本所に限らず、江戸外縁部は余りに適当な描かれ方をしているため、どの地図も信用できない。

前身は深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)であるという。『嘉永新鐫本所繪圖』(1855(安政元~2)年)には現在の太平四丁目交差点の北西側に「同(深川)六間堀町代地」とある。

深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)とは、1697(元禄10)年に深川六間堀町の一部が武家屋敷用地となったため、本所法恩寺橋通り北側に代地を下付された地である(寛政年中という説もあり)。本所永隆寺門前の東、長三丁余。1713(正徳3)年に町奉行・代官の両支配下となった(備考)。化政期(1804~1830年)の家数58軒(町方書上)。「六間堀」とは、本所竪川の一ノ橋と二ノ橋の間から南へ、小名木川まで流れていた堀のこと。川幅の6間からきた名称である。

「本所永隆寺門前の東、長三丁余」に着目すると、本所永隆寺門前(後の本所永隆寺町)の東から三丁余(327m+α)ということなので、深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)の東端は太平四丁目交差点を越えないことになる。解りやすく書くと、きんしちょう整体院(太平一丁目19番7号宮方ビル)からすみだ江戸切子館(太平二丁目10番9号)までぐらいの距離である。

となると、本所花月町は深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)の後身であるから、太平四丁目交差点の北西側にあったことになる。また、その後身は本所太平町一・二丁目であり、現在の太平一~三丁目ということになる。

しかし、『角川日本地名大辞典』には「1891(明治24)年に柳島町に編入。現在の太平四丁目・錦糸四丁目のうち」とある(いくら難でも錦糸四丁目は有り得ない)。「柳島町に編入」ということは太平四丁目交差点より東でなくてはならないわけである。そうなると当町の前身は深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)ではなかったということになってしまう。

逆に『本所絵図』(年代不明)では、深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)の位置を太平四丁目交差点の北東のみとしている。こちらは四ツ目通りを挟んだ東西に「(本所法恩寺前)深川代地町」を両側町として書き、その東隣に「六間堀代地町」とある(その東隣は横十間川の天神橋までを柳島横川町としているが、これでは柳島町が存在しなかったことになってしまう…)。

さてどちらが本当なのだろうか。

さて次に、「本所花月町」を表す地図を見てみる。

「本所花月町」の位置を、太平四丁目交差点を起点に北西側に描く地図は、『永福東京御繪圖』(1870(明治3)年)で、法恩寺の東に「太平丁」その横に「花」の1文字だけが見える。また、『東亰區分全圖』(1878(明治11)年)には「カケツ丁」とある。

しかし、北東側に描く地図は以下にこれだけあった。

『東京全図』(1879(明治12)年)に「本所花月甼、『改正區分東京細圖:全』(1881(明治14)年)に「花月丁」、『名勝圖解東亰御繪圖』(1881(明治14)年)に「花月町」、『明細改正東京新圖』(1884(明治17)年・1885(明治18))と『明細新選東亰全圖』(1886(明治19)年)に「花月町」、『東京全圖:明細測量』(1887(明治20)年)に「花月丁」、『明治改正東亰全圖』(1887(明治20)年)に「花月丁」、『改正明細東亰圖:付横濱全圖』(1889(明治22)年)に「花月丁」、『新撰實測東亰圖』(1889(明治22)年)に「花月丁」、『改正東京府管轄測量全圖』(1890(明治23)年)に「花月丁」、『東亰精測新圖』(1890(明治23)年)に「花月丁」、『改正東亰測量里程新圖』(1891(明治24)年)には「花月町」と「花月丁」の両方がある。

さらに当町は1891(明治24)年に消滅したはずなのだが、『東京全図』(1892(明治25)年)に「花月町」と、『改正東亰測量里程新圖』(1892(明治25)年)にも「花月丁」、「花月町」と両方ある。

以下、消滅後にも当町名が記された地図を羅列する。

『改正東亰全圖=Map of Tōkyō』(1895(明治28)年)…「花月丁」(消滅後4年経過)

『東京一目新圖』(1897(明治30)年)…「花月町」(消滅後6年経過)

『改正東亰全圖=Map of Tōkyō』(1900(明治33)年)…「花月丁」(消滅後9年経過)

『東亰全圖』(1900(明治33)年)…「本所花月町」(消滅後9年経過)

『東京全図』(1907(明治40)年)…「花月町」(消滅後16年経過)

『東京市街全圖:實地踏測』(1911(明治44)年)…「花月町」(消滅後20年経過)

『東京全図』(1914(大正3)年)…「花月町」(消滅後23年経過)

この結果、どう見ても当町の位置は現・太平四丁目交差点の北東側と見てもよさそうである。

しかし、『東京區分明細圖』(1878(明治11)年)にも「カゲツ丁」とあるが、その文字は北西側に書かれ、さらに蔵前橋通りを挟んだ南側も町域としている。また、『繪入東京御繪圖:全』(1881(明治14)年)と『明細新選東亰全圖』(1886(明治19)年)、『改正東亰全圖』(1890(明治23)年)にも「花月丁」とあるが、蔵前橋通りの北ではなく、南西部、それもさらにその南のブロックまでを町域として描いている。また、『東亰全図』(1886(明治19)年)にも「花月丁」とあるが、四ツ目通りを挟んで北西と北東にある。さらに『東亰明細圖:新撰區分』(1876(明治9)年)は、永隆寺と本仏寺の東から現・オリナス錦糸町、墨田区立錦糸公園北部までのかなり広範囲を「花月丁」としている(おまけに当時二丁目までしか存在しなかったはずの本所太平町も三丁目まで存在している…)。

ここまでいくと何を信じたらよいのか判らなくなってくる。

繰り返すが、町は、年代によって、改称、移動、拡縮、他町と合併等をしたりする。それは理解している。したがって、当町の位置を蔵前橋通り北東側に描く地図が圧倒的多数だったということで後身を柳島町、現・太平四丁目としてしまっていいのだろうかとも考える。

本所花月町が深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)の後身であるのであれば、『角川日本地名大辞典』の記述、『嘉永新鐫本所繪圖』の描画からして太平四丁目交差点の北西側となる。しかし、『本所絵図』では「六間堀代地町」の位置が北東側となっており、明治・大正に出版された地図でこれだけ太平四丁目交差点の北東側に「カケツ丁」「カゲツ丁」「本所花月町」「花月町」「花月丁」とあるのであれば、北東側が正しい位置であったのではないかと思えてくる。

ただし、『東亰明細圖:新撰區分』(1876(明治9)年)、『東京區分明細圖』(1878(明治11)年)、『繪入東京御繪圖:全』(1881(明治14)年)、『明細新選東亰全圖』(1886(明治19)年)、『改正東亰全圖』(1890(明治23)年)を参考資料として採用すると、深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)、そして後身の本所花月町の位置や町域が変わった可能性も捨て切れない。

そして『東亰精測新圖』や『東亰測量里程新圖:改正』のように、交差点北東部分までをも「花月丁」とするなら、前身は深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)だけではなく、深川元町代地も含むことになるのでますます混乱を極める。

真偽不明だが、前身は深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)。その深川六間堀町代地(深川六間堀代地町)として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、「本所花月町」に改称して起立。町名の由来は不明。吉本興業による「江東花月」が東京楽天地に誘致されたのは1937(昭和12)年2月27日なのでそれとは一切関係ない(位置も江東花月はだいぶ南の本所錦糸町の東南角)。1872(明治5)年の戸数47・人口180(府志料)。1878(明治11)年11月2日、本所区に所属。

1889(明治22)年5月1日、東京市に所属。1891(明治24)年、町域が現・太平四丁目交差点より北西側であれば本所太平町一・二丁目に、北東側であれば柳島町に編入となり消滅。

撮影場所:本所花月町

撮影地:墨田区太平四丁目8番12号(へぎそば そば酒坊)

柳島裏町 深川六間堀代地町


江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。