【本所①026】本所太平町

町番号:本所①026

町名:本所太平町 一・二丁目

読み方:ほんじょたいへいちょう Honjo-Taiheichō

区分:町丁

起立:1869(明治2)年

廃止:存続 「太平」として

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本所」

現町名:墨田区太平一~三丁目、錦糸一~三丁目、横川一丁目

概要:1869(明治2)年、柳島出村町中之郷代地町南本所出村町、南本所出村御用屋敷、北本所出村町本所法恩寺前深川元町代地(町)の一部及び全部を併せた、俗に「法恩寺前」といわれた地域を一丁目とし、深川元町代地、深川六間堀代地町、丹波亀山藩松平豊前守屋敷、御徒組大縄地(御徒町)、御先弓組大縄地(御弓町)、その他の武家地、柳島村飛地を併せた、俗に「本所南割下水」といわれた地域を二丁目として起立。

町名の由来は慶賀の意味を持たせたものとも、太田道灌と平河山法恩寺のそれぞれの頭文字から採ったとも。法恩寺は江戸時代においては、谷中宗林寺、浅草幸龍寺とともに京本国寺末触頭を勤め、塔中二十ヶ寺、末寺十一ヶ寺を擁する大寺だった。参道沿いにある、陽運院、千栄院、善行院、法泉院は法恩寺の子院。当町が「本所七不思議」の『送り提灯』の舞台である。1872(明治5)年、本所永隆寺町と付近の武家地、寺地を編入。同年の戸数323・人口1,216(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府本所区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本所区に所属。

帝都復興計画の一環により、1931(昭和6)年に柳島横川町の一部が四丁目に、柳島梅森町の一部が二・三丁目に編入となり、一丁目の北部が横川橋一丁目に編入、1932(昭和7)年には一丁目が一・二丁目と錦糸町一丁目、横川橋一・二丁目に、二丁目が二・三丁目と錦糸町一~三丁目に、柳島町の一部が四丁目へと再編される。1943(昭和18)年7月1日、東京都本所区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都墨田区に所属。

1967(昭和42)年5月1日、住居表示の実施により、太平町一~四丁目が太平一~四丁目、錦糸一~三丁目、横川一丁目となる。

※『角川日本地名大辞典』には「俗に法恩寺前といい、1丁目は江戸期の柳島出村町南本所出村町・南本所出村町御用屋敷・北本所出村町中之郷代地町・深川元町代地の一部および全部。2丁目は俗に南割下水錦糸堀といい、北本所代地町・四ノ橋通小梅代地町中之郷代地町・深川元町代地町の各一部」とあるが、二丁目の方は現・錦糸公園のうちである四ノ橋通小梅代地町中之郷代地町までをも含んでいるがそれは間違い。

なお、二丁目北部の現・蔵前橋通り、法恩寺の東から太平四丁目交差点までの西から東の各町を各地図で確認すると、『本所絵図』では深川代地町南本所代地町北本所代地町南本所出村町北本所代地町南本所代地町深川代地町と激しく入れ子になっており、『北本所横川ヨリ亀戸迄 : 天保一一年八月ノ形』(1840(天保11)年)では、深川元町代地、南本所出村町北本所代地町南本所出村町北本所代地町南本所出村町、深川元町代地と同様に入れ子になっている。

この『本所絵図』と『北本所横川ヨリ亀戸迄 : 天保一一年八月ノ形』の2つの違いは、『本所絵図』では最西と最東に深川代地町があり、それぞれその隣に南本所出村町が2ヶ所あるが、『北本所横川ヨリ~』ではその位置に南本所代地町となっていること。また『本所絵図』では深川代地町は2ヶ所あるが、『北本所横川ヨリ~』では深川元町代地となっていること。前者は不明だが、後者は1776(安永5)年に深川代地町が「深川元町代地」に改称したことによる。

しかし、『嘉永新鐫本所繪圖』(1855(安政2)年)や『大江戸今昔めぐり』では、実にシンプルに西から、深川元町代地、同六間堀町代地(「深川六間堀代地町」ともいった)とある。これは15年のうちに細かい町の入れ子状態を整理した結果なのかもしれない。

撮影場所:本所太平町一丁目

撮影地:墨田区太平一丁目20番(法恩寺参道)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:市ヶ谷田町下二丁目