【深川②】深川六間堀町

町名:深川六間堀町

読み方:ふかがわろっけんぼりちょう Fukagawa-Rokkemborichō

区分:町丁

起立:寛永年間(1624~1645年)

廃止:1869(明治2)年

冠称:「深川」

後身:深川北六間堀町深川南六間堀町

現町名:江東区森下一丁目、常盤一・二丁目、新大橋二・三丁目

概要:切絵図では六間堀を挟んで東と西に位置した。江戸初期は葛飾郡西葛西領深川村の分郷六間堀のうち。寛永(1624~1645年)~天和(1681~1684年)年間に百姓町屋ができた。1713(正徳3)年、町奉行・代官両支配となる。町内を中之橋を境に北組南組の2組に分け、各々自身番屋を置いた。1697(元禄10)年、松平遠江守、堀田伊豆守の屋敷が設けられた際、代わりに牛込岩戸町等に代地が与えられたが、年貢は深川六間堀町の名主に差し出された。化政期(1804~1830年)の家数738軒。当時の鎮守は六間堀神明宮(深川神明宮)で、深川村の開拓者の深川八郎右衛門が以前から当地にあった小祠を祀ったもの。現・森下一丁目に現存する。当社の別当寺は天台宗医王山妙王院泉養寺、他に黄檗宗恵日山真光寺、同福聚山泰耀寺があったが移転。跡地は町並屋敷となる。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、北組を「深川北六間堀町」、南組を「深川南六間堀町」と改称して消滅。現行の森下一丁目、常盤一・二丁目、新大橋二・三丁目のうち。

※『角川日本地名大辞典』では「現行の森下1丁目・常盤2丁目・新大橋2~3丁目のうち」とあるが間違い。また、廃止年も「明治4年」とあるがそれも間違い。

なお、江戸期に作られたはずの切絵図でも既に深川北六間堀町深川南六間堀町は存在しており、北森下町の六間堀を挟んだ西側に方角の付かない「深川六間堀町」も存在している。また、『大江戸今昔めぐり』では、六間堀の西側は全て「深川六間堀町」、東側は全て「深川南六間堀町」となっており、深川北六間堀町は存在しない。

以下に「六間堀」と「五間堀」について記述する。

「六間堀」とは、現・墨田区千歳二・三丁目境と南方の現・江東区常盤一・二丁目境との間に通じ、竪川と小名木川を結んでいた運河をいった。『文久板本所深川絵図』では、本所松井町一・二丁目の間から竪川の入堀が南へ小名木川に通じていて、「六間堀」と記入。『府内誌残篇』には「六間堀 竪川の支流にして、竪川と同時に疏通す。川幅六間あるを以て直に六間堀と名付く」とある。第二次世界大戦に分流の五間堀とともに埋め立てられて消滅。松井橋、山城橋、弥勒寺橋、伊予橋等が架かっていた。

「五間堀」とは、現・江東区森下一・二丁目と現・墨田区千歳三丁目、立川一丁目、菊川一丁目の境界線を成していた運河をいった。『文久板本所深川絵図』では、竪川と小名木川を結ぶ六間堀が深川六間堀町と深川北森下町の間で東へ分かれ、さらに東南に屈折している部分に「五間堀」と記入。六間堀に対して、こちらは幅五間だったので「五間堀」と呼ばれた。『備考』には「五間堀 右は万治二亥年中本所御奉行徳山五兵衛様、山崎四郎左衛門様御掛にて堀割に相成り申し候」とある。六間堀とともに第二次世界大戦後の埋立で消滅。

撮影場所:深川六間堀町

撮影地:江東区新大橋三丁目10番7号(理容タカハシ)

御旅町 深川六間乗堀町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:品川歩行新宿