【日本橋 河岸】高間河岸
河岸名:高間河岸
読み方:たかまがし Takama-gashi
区分:河岸
成立:江戸期
廃止:明治期
現町名:中央区日本橋本町一丁目
概要:日本橋川の河岸。『江戸切繪圖 : 俚俗 : 日本橋以北』の日本橋~江戸橋間北側に西から「●魚河岸」、「●芝河岸」、「●地引河岸」、「●高間河岸」とある。明治期には全て「魚河岸」に統一されてしまったようだ。
「高間」とは高間伝兵衛のこと。享保年間(1716年~1736年)に江戸で知られた富商で、米価低落への対応の一つとして、1731(享保16)年に幕府から命じられ、米方役(買米役人)として大坂金蔵の貨幣で米穀の購入に努めた。伝兵衛は伊勢町に24棟の米蔵を構えていた。1733(享保18)年に江戸で起こった打ちこわしに際し、約2000人に自宅を襲われた。もっとも打ちこわしに襲われたことについて『草間伊助筆記』では「米穀買占高直に売出し」たことによるとしているが、『徳川実紀』では「府内の米をかひ置によれりとの流言」によったと弁じられている。1744(延享元)年に江戸買米に際し、兵庫屋弥兵衛等と共に各5000石を当てられるほどの富商であった。
なお、1927(昭和2)年、江戸橋は昭和通り開通の際に上流側に90mずらされて架け替えられた。当初は現在の江戸・もみじ通りの北に架けられており、その橋北詰の西側に当河岸があった。なお、橋の南は江戸橋広小路と呼ばれていた。
1923(大正12)年、関東大震災によって壊滅的な被害を受け、築地へ移転となった。
撮影場所:高間河岸
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