【麹町①021】麹町

町番号:麹町①021

町名:麹町 一~十丁目

読み方:こうじまち Kōjimachi

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:存続

冠称:なし

現町名:千代田区麹町一~六丁目の各一部

概要:「小路町」や「糀町」とも書いた。江戸期は西は半蔵門外の内濠から外濠を挟んで四谷・赤坂見附に及ぶ地域で、町域の中央を甲州街道(道宿通り)が東西に貫通。地名の由来は、麹製造業者が多かったためとも(江戸方角註解・府志料)、「東西髪の如」き小路町の意とも(江戸繁昌記・麹街略誌稿)、武蔵国府(府中市)と江戸湊を結ぶ街道上の町で、「国府路町」の転化とも(府志料)いう。

天正年間(ユリウス暦1573年~グレゴリオ暦1593年)までは藪野で、徳川氏入国当時は「矢部村」といったと伝え、草分け名主の矢部氏は二丁目に居住、府中・江戸間の運送業者を支配して、旗本の生活物資供給を役としたという(切絵図・画報)。

慶長(1596~1615年)・元和年間(1615~1624年)には半蔵門から四谷見附外まで、甲州街道沿いに一~十三丁目があり、『江戸繁昌記』には『西郭の劇地、東西に髪のごとく、直に郭内を貫く十は内にあり、三は外にあり、合して十三街と為す」とある。山の手中、最も繁華な町で、番町や外桜田に屋敷を持つ大名・旗本相手の商家が多く、1727(享保12)年には藁葺の家作が禁じられた。

一丁目を半蔵門に近いことから「半蔵町」(新編江戸志)、五・六丁目南側を「大横町」、北側善国寺跡付近を「善国寺横町」・「神保横町」(切絵図・砂子)、七丁目北側を「亀沢横町」、八・九丁目の間を常仙寺虎薬師に因んで「薬師横町」、九・十丁目境を成瀬隼人正の屋敷に因み「成瀬横町」と各々俗称した。

四丁目には豊臣秀吉の部将・小西行長の子孫という薬種屋小西六兵衛の店があり(遊歴雑記)、八丁目には慶長年間(1596~1615年)には傾城町があったが、のち吉原に移転(異本同房語園)。切絵図版元の金鱗堂が六丁目に、近吾堂が十丁目にあり、また三~七丁目裏には火除地が(天保江戸町鑑)、一・二丁目裏手、三・四丁目裏手、五丁目裏手には調練馬場や大的等があった。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、七丁目に出雲松江藩中屋敷、八丁目に志摩鳥羽藩上屋敷と麹町谷町、十丁目に尾張徳川家中屋敷の一部を、十一~十三丁目にも周辺の武家地・寺地をそれぞれ合併。同年の戸数1,634・人口6,773(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府麹町区に所属。1880(明治13)年、十一~十三丁目は四谷区に編入(麹町)。1881(明治14)年には東京第1分隊第3区隊の憲兵屯所を半蔵門外に設置。明治中期には六丁目に山中稲荷・桃園稲荷・五社稲荷があり、また八丁目に浄土宗林高山栖岸院、九丁目に曹洞宗石雲山常仙寺、十丁目に浄土宗常栄山天性院心法寺があった(画報)。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麹町区に所属。

1934(昭和9)年、帝都復興計画の一環により、一・二丁目を一丁目、三丁目を二丁目の一部、四丁目を二・三丁目の各一部、五丁目を三・四丁目の各一部、六・七丁目を四丁目の一部、八丁目を五丁目の一部、九丁目を五・六丁目の各一部、十丁目を六丁目の一部に再編し、さらに麹町山元町二丁目を二・三丁目の一部に、麹町山元町三丁目を四丁目の一部に、麹町紀尾井町の一部を五・六丁目に、麹町元園町二丁目を三・四丁目の各一部として合併した。また、1938(昭和13)年8月1日には、麹町元園町一丁目を一・二丁目の各一部として合併(残余は一番町と合併)した。

1943(昭和18)年7月1日、東京都麹町区に所属。なお、同時に1880(明治13)年に四谷区へ編入した十一~十三丁目(麹町)は四谷一・二丁目となる。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。住居表示は未実施。

撮影場所:麹町四丁目

撮影地:千代田区麹町三丁目1番地2(さつき濃)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。