【神田①018】神田和泉町
町番号:神田①018
町名:神田和泉町
読み方:かんだいずみちょう Kanda-Izumichō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:存続
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「神田」
現町名:千代田区神田和泉町
概要:1872(明治5)年、伊勢国津藩藤堂家の上屋敷、出羽国鶴岡藩酒井家の中屋敷等跡に起立。町名の由来は藤堂家が代々「和泉守」を名乗ったことから。同年の戸数4・人口207(府志料)。
明治維新後、津藩上屋敷跡地に東京医学所(1876(明治9)年以降は東京帝国大学第二医院と改称。現・東京大学医学部附属病院の前身)を、1874(明治7)年に酒井家跡に文部省医務局薬場を設置。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。1923(大正12)年9月1日の関東大震災では、町民の防火活動により罹災を免れ、世の奇跡として市民の賞賛を受けた。そのため当町を含む一帯は、1939(昭和14)年1月、東京府より「関東大震災協力防火の地」として顕彰され記念碑が建てられた。
1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区に所属。1945(昭和20)年3月10日未明の東京大空襲では全域焼失。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。戦後の1948(昭和23)年には、現在の三井記念病院の敷地の一部に当時の農林省東京食糧事務所ができ、全国知事会議や食糧需給上の重要な会議が開催された。現在の千代田区立和泉公園は食糧難時代所縁の旧跡といってよい。
文京区白山二丁目9番12号の念速寺には「美幾女の墓」がある。「美幾」とは駒込追分の彦四郎の娘で、10歳で本郷の旧家に奉公していたが、父の怪我により生活が困窮し、新吉原へ遊女に出されたといわれている。その後、梅毒に罹患。美幾は労咳が悪化したことで黴毒院へ入院。病死を予期した頃、医師から死後解剖のために自らの身体を提供する特志解剖を勧められ、父母・兄の連署のうえ、書類を東京府に提出した。1869(明治2)年8月12日、美幾は34歳で没した。こうして我が国最初の病死体解剖は、後に神田和泉町として起立する当地内の医学校仮小屋で行われた(現在の三井記念病院敷地)。
なお、文京区の「美幾女の墓(念速寺)」の説明文には「旧下谷和泉町の~」とあるが、今も昔もそのような名の町は存在しない。医学校仮小屋があったのは出羽国鶴岡藩酒井家の中屋敷等跡で、そこが「神田和泉町」と呼ばれるようになったのは1872(明治5)年からである。したがって、俗に「和泉橋通御徒町」と呼ばれた地区や「下谷御徒町」と呼ばれた地区と近く、また伊勢国津藩藤堂家敷地の跡地に隣接していたため、苦肉の策で「旧下谷和泉町の~」と記したのであろう。「下谷和泉橋通」と書かれているものもあるという。
撮影場所:神田和泉町
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