【神田①023】神田相生町
町番号:神田①023
町名:神田相生町
読み方:かんだあいおいちょう Kanda-Aioichō
区分:町丁
起立:1699(元禄12)年
廃止:存続
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「神田」
現町名:千代田区神田相生町、外神田一、四丁目
概要:以前は豊島郡峡田領の寺地又は武家地(備考)。上野山内の塔頭寺院の持ち地であったが、1699(元禄12)年に召上げ地となり、代わりに神田佐久間町一丁目裏に代地が与えられた。1719(享保4)年、下谷御数寄屋町出火による類焼後の土地整理で、その代地が火除地となり、その北側に代地の代地が与えられたため、神田相生町は南・北2ヶ所に分かれた。1849(嘉永2)年板切絵図では、神田八軒町、上野町代地を挟んで神田相生町がある。南側の元地を「大通」、北側の代地を「中通」、「片町」と呼んだ。これは『御府内備考』に「町内の儀は貳ヶ所に相別、元地の方里俗大通と唱、代地の方大路次を限南の方里俗中通、北の方片町と相唱申候」とあることから判る(『角川日本地名大辞典』では逆に書かれている)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年の火災で南部分が焼失。火除地となったため、北側のみが残った。火除地となった場所が現在の汎称「秋葉原」である。町内は上野御殿御納戸地面で上納五節句を納めていた。自身番屋は大通西角にあった。1791(寛政3)年、心学者の中沢道二が講談所参前舎を開設、参前舎は明治まで存続した。他に即席料理店甲州屋があった(備考)。1872(明治5)年、武家地を合併。当時の戸数123・人口532(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。1889(明治22)年、1~21番地まであったうち、1~9番までは上野~秋葉原間の貨物線等の敷地となった(画報)。その後、秋葉原駅の設置、上野~神田間の高架線化に伴って町域は漸減した。1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。
1964(昭和39)年12月1日、住居表示の実施により、町内の北側が現行の外神田一、四丁目に編入されてしまった。
撮影場所:神田相生町
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