【芝①035】芝公園地

町番号:芝①035

町名:芝公園地 1~25号地

読み方:しばこうえんち Shiba-Kōenchi

区分:町丁

起立:1873(明治6)年

廃止:存続 「芝公園」として

冠称:なし

現町名:港区芝公園一丁目1~8番、二丁目1~12番、三丁目1~5番、四丁目2~10番、芝大門一丁目1、9・11番、西新橋三丁目の一部

概要:古くは「飯倉御厨」と呼ばれる伊勢神宮の荘園であった。1598(慶長3)年、増上寺が徳川家康によって麹町から現在の芝の地に移される。

前身の芝三縁町として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1873(明治6)年10月19日、芝公園開園。公園名とその区域名とを区別するため、「芝公園地」と称したと考えられる。

なお、公園設立の達しは1873(明治6)年、同年に公園取扱心得を決定し、その後増上寺境内取調べ等の手続きがあって、同年中に測量して公園地境界を定め、さらに1876(明治9)年にそれを改定している(東京市史稿遊園篇)。正式な公園としての扱いは1873(明治6)年3月(東京地理志料)、1873(明治6)年7月(続武江年表)、1874(明治7)年1月(法令類纂)、1874(明治7)年7月(府志料)とあり、正しくは定め難いが、以後慣習的に「芝公園地」と呼んだと推定される。但し、1877(明治10)年7月25日付府知事宛の文書は増上寺の所在地を「第2大区5小区芝公園内」と記している。公園地成立後、敷地は芝公園地1~25号地の25区画に振り分けられ、その後1892(明治25)年までに「芝公園〇号地〇番」のように呼称を統一した(港区沿革図書)。「芝公園地」の地名は慣習的には用いられたようで、公称として「地」付けた表(港区沿革図書)もあるが、『芝区誌』等には既に「地」は省かれている。町域には増上寺境内だけではなく、金地院、幸稲荷、光里寺等の寺社地を含んでいる。

1878(明治11)年11月2日、東京府芝区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市芝区に所属。1890(明治23)年、増上寺五重塔を増上寺から芝公園に移管。1899(明治32)年、初代陸地測量部長小菅智淵工兵大佐の銅像が公園内に建立される(後に戦時中の金属供出で撤去)。

明治末期、芝公園地の「地」が正式に省略され、東京市芝区芝公園となる。1908(明治41)年の人口は2,047、1920(大正9)年には2,350、1924(大正13)年には7,161、1925(大正14)年には2,548と推移している。

1929(昭和4)年、 芝区役所(現在の港区役所及び芝地区総合支所)が芝公園6号地に移転。1943(昭和18)年7月1日、東京都芝区に所属。1945(昭和20)年、戦災によって増上寺境内の五重塔と徳川家霊廟等、殆どが焼失。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。1958(昭和33)年10月14日、東京タワーが芝公園20号地に完成。

住居表示の実施により、1965(昭和40)年7月1日、一部が西新橋三丁目に編入、1972(昭和47)年1月1日には、一部が芝大門一丁目1~8番に編入され、残りの芝公園1~25号地に周辺地区を併せ、現在の芝公園一~四丁目が成立する。その内訳は芝公園5~9号地が一丁目、芝公園10~15号地、芝片門前町一丁目、芝片門前町二丁目が二丁目、芝公園3・4号地・21~25号地、芝栄町の一部が三丁目、芝公園1・2号地・16~20号地、芝栄町の一部、麻布飯倉町五丁目が四丁目。また、1976(昭和51)年10月1日には芝栄町の一部が三丁目に、1977(昭和52)年9月1日にも芝栄町の一部が三・四丁目のそれぞれ一部に編入となった。

2006(平成18)年4月1日から2011(平成23)年3月31日まで、指定管理者制度により、芝公園が財団法人東京都公園協会の管理となる。現行の港区芝公園一丁目1~8番、二丁目1~12番、三丁目1~5番、四丁目2~10番、芝大門一丁目1、9・11番、西新橋三丁目の一部。

撮影場所:芝公園地1号地

撮影地:港区芝公園四丁目8番(港区立芝公園)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。