【麻布①037】麻布新堀町
町番号:麻布①037
町名:麻布新堀町
読み方:あざぶしんぼりちょう Azabu-Shimborichō
区分:町丁
起立:1872(明治5)年
廃止:1966(昭和41)年3月31日
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「麻布」
現町名:港区南麻布二丁目2~5、8、10~13番
概要:江戸時代初期には町域の殆どが武家屋敷であり、南西部に一部寺社地があり、町域北東部、現在の大通りの東側は三田村の一部だった。当時の古川はまだ小さな流れで、今よりも東を流れていた。その周辺に、飯倉町の代地ができ、1698(元禄11)年に麻布富士見町に白銀御殿造営のために古川に改修の手が入り、大凡現在と同じ流路となった。その際、飯倉町代地はなくなり、三田古川町の西応寺領町屋、三田古川町、三田古川町拝領町屋となった。明治維新後、北隣の麻布龍土町代地古川町と麻布古川町を合併して新たに三田古川町が起立となるが、住民はすぐに神田橋外に替地され、その後は空き地となる。
1872(明治5)年、土佐高知藩山内氏上屋敷、大和高取藩植村氏、信濃飯田藩堀氏下屋敷等の武家地と三田古川町を合併して起立。町の東と南が新堀川(古川)に沿っていた(府志料、江戸名所)。町名の由来は、古川のことを「新堀川」と呼んでいたため。同年の戸数8・人口39(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府麻布区に所属。1887(明治20)年頃は大部分が空き地で、その後、徐々に貸長屋、町工場や倉庫、小住宅が建ち始める。この地区には修験者の居住地区があったらしく、俗称で「法印町」、「神原町」と呼ばれた(『港区史』)。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市麻布区に所属。1908(明治41)年の世帯数391・人口1,763(市勢調査)。1943(昭和18)年7月1日、東京都麻布区に所属。戦後は住宅、アパート、会社寮等が増えた。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。
1966(昭和41)年4月1日、住居表示の実施により、南麻布二丁目2~5、8、10~13番に編入となり消滅。
撮影場所:麻布新堀町
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