【小石川①047】小日向茗荷谷町

町番号:小石川①047

町名:小日向茗荷谷町

読み方:こびなたみょうがだにちょう Kobinata-Myōgadanichō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1966(昭和41)年3月31日

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「小日向」

現町名:文京区小日向一、三・四丁目

概要:古くは豊島郡小日向村の畑地。町屋が許された年代は不明だが、1713(正徳3)年から町奉行・代官両支配となる。小石川台地と小日向台地の間の谷で、町名は嘗て茗荷畑があったことによる。1705(宝永2)年、江戸中の火の番を務めた八王子千人同心の火消屋敷が置かれた。また寛永(1624~1645年)~正保年間(1645~1648年)頃、初代宗門奉行井上筑後守政重の下屋敷内にキリシタン信徒の収容所が設けられ、「切支丹屋敷」と称された。屋敷内には石垣を巡らせた牢獄の他、吟味所、与力同心宅地の他、斬罪場・八兵衛石(夜啼石、のち日輪寺に移す)等があった(改撰江戸志)。1792(寛政4)年の廃止後は川窪勘解由の御預地となり、銃練場として使用された。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年5月、小日向三軒町の一部と小日向林泉寺門前町(小日向林泉寺町又は小日向林泉町)、1872(明治5)年8月、小石川金杉水道町飛地、旧野村藩戸田氏邸跡、七軒屋敷や十二軒屋という付近の武家地、臨済宗妙峰山徳雲寺、浄土宗玉樹山良念寺、曹洞宗青龍山林泉寺、浄土宗清水山深光寺、曹洞宗日輪山明照寺等の寺地を合併。同年の戸数42・人口203(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府小石川区に所属。町内には蛙坂、藤坂、釈迦坂、庚申坂等があった。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市小石川区に所属。1901(明治34)年、当時西部に台湾協会の事業として台湾協会専門学部(後の東洋協会専門学校、現在の拓殖大学)が富士見町から移転。また、1906(明治39)年には東亜鉄道学校が移転、他に明治30年代の町内には義勇兵団馬術練習所があった(画報)。1943(昭和18)年7月1日、東京都小石川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。

1966(昭和41)年4月1日、住居表示の実施により、小日向一、三・四丁目に編入となり消滅。現在では東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅に「茗荷谷」の名が残る。

なお、小日向三・四丁目の境、拓殖大学と浄土宗深光寺の脇を茗荷谷駅へ北上する坂を「茗荷坂」といい、坂下の茗荷谷は切支丹屋敷の牢役人の組屋敷「七間屋敷」の跡と伝えられ、『改撰江戸志』に「茗荷谷は七間屋敷の処の谷なり。むかしこの所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり」とある。

※『角川日本地名大辞典』では、1911(明治44)年5月1日、冠称を外して以降の読みを「みょうがだにまち」としている。

撮影場所:小日向茗荷谷町

撮影地:文京区小日向四丁目8番(釈迦坂下)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。