【下谷①009】下谷茅町

町番号:下谷①009

町名:下谷茅町 一・二丁目

読み方:したやかやちょう Shitaya-Kayachō

区分:町丁

起立:1628(寛永5)年

廃止:1966(昭和41)年12月31日

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「下谷」

現町名:台東区池之端一・二丁目

概要:徳川家康が江戸へ入府した頃、この地は本郷台崖下の不忍池の岸辺であり、一面に茅が生い茂っていた。「町名茅町と唱候訳、当時松平淡路守様、榊原遠江守様御屋舗の崖通り往古は奥州海道にて、崖下は一円茅野に御座候処町地に相成候節右茅野の跡茅町と唱候旨申伝候」(備考)。元和年間(1615~1624年)から寛永年間(1624~1645年)にかけて、崖を切り開き、湿地を埋め立て、大名屋敷や寺院が建てられていった。この頃より「下谷茅町」と称されるようになったという。町名は茅等が多く生い茂っていたことによる。一丁目は1628(寛永5)年「寛永五辰年中東叡山御門前町家に相成」、二丁目は1632(寛永9)年に「寛永九申年東叡山御門前地に相成」とあるとおり、南部を一丁目、北部を二丁目と分けられた。上野本坊の御用人足や御山内掃除人足を差し出した不忍池西岸の加賀大聖寺藩前田氏上屋敷側に一丁目が1ヶ所、二丁目が2ヶ所あって、本郷台へ続く一丁目と二丁目の境の坂が森鷗外の『雁』に出てくる無縁坂である。1682(天和2)年の類焼後、池側の幅4間を削って非常時の往来とし、夜は木戸を閉じ、車は通さなかった。はじめ寛永寺目代田村権右衛門の管轄で寺社奉行支配地、1745(延享2)年に町奉行支配地となった。1828(文政11)年の家数253軒(町方書上)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、越後高田藩榊原氏中屋敷、近隣の武家地を一丁目に併合(当地が旧岩崎邸庭園)。当時の戸数337・人口1,197(府志料)。1874(明治7)年に西一部を割譲し、下谷龍岡町が起立。

1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。なお、下谷龍岡町は、本郷区発足にあたり、「本郷龍岡町」と改称して同区へ編入となる。眺望が良いため、明治以後、岩崎久弥・中井敬輔等の居宅が建てられた。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。

1967(昭和42)年1月1日、住居表示の実施により、大部分が池之端一丁目に、極一部が二丁目に編入となり消滅。

撮影場所:下谷茅町一丁目

撮影地:台東区池之端一丁目3番45号(旧岩崎邸庭園)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。