【下谷①008】下谷数寄屋町

町番号:下谷①008

町名:下谷数寄屋町

読み方:したやすきやまち Shitaya-Sukiyamachi

区分:町丁

起立:慶応4年7月17日(1868年9月3日)

廃止:1964(昭和39)年9月30日

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「下谷」

現町名:台東区上野二丁目2~5、9・10番

概要:当地ははじめ寺地で寛文年間(1661~1672年)は東福寺薬師等の境内であった。1682(天和2)年12月、駒込大円寺から出火した火災で、この附近一帯が焼失。翌年、幕府拝領屋敷となった。幕府の数寄屋坊主・鈴木一斉、同じく吉川正益、西丸奥坊主・井上春佐等がこの地を拝領し町を形成した。上野広小路の西裏側に4区画が位置した。1828(文政11)年の家数129軒(町方書上)。町名はこの数寄屋坊主の屋敷があったことに因む。『御府内備考』によると、この地に屋敷を拝領した坊主は数寄屋坊主より奥坊主の方が数は多かったという。しかし、最初の拝領者が数寄屋坊主だったのに因み、「下谷御数寄屋町」と呼んだのであろう。『江戸地名俚俗字引』には「小坂下という処あり」とある。

前身の下谷御数寄屋町として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。この際に「御」の字を取り、「下谷数寄屋町」と改称。1872(明治5)年の戸数95・人口386(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。当町は花柳街としても有名で、隣接の湯島天神下同朋町の芸妓とともに「数寄屋芸妓」の名で知られた。1883(明治16)年に刊行された『東京妓情』の見立てでは、葭町(芳町新葭町)とともに二等に位置付けされている。ちなみに一等は柳橋と新橋だが、江戸芸妓としての見識は新橋より上とされていた。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。

1964(昭和39)年10月1日、住居表示の実施により、上野二丁目2~5、9・10番に編入となり消滅。

撮影場所:下谷数寄屋町

撮影地:台東区上野二丁目5番4番(上野市場本店)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。