【浅草①079】浅草山谷町

町番号:浅草①079

町名:浅草山谷町

読み方:あさくささんやちょう又はあさくささんやまち Asakusa-Sanyachō or Asakusa-Sanyamachi

区分:町丁

起立:1713(正徳3)年

廃止:1966(昭和41)年9月30日 「浅草山谷」として

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「浅草」

現町名:台東区東浅草一・二丁目、日本堤一・二丁目、今戸一・二丁目、清川一・二丁目(入会地だった地域は除く)

概要:江戸時代初期、この地は「山谷村」と称していた。1713(正徳3)年、山谷村の内に形成された町屋が別れて、浅草山谷町が起立し、町奉行支配となる(備考)。残った村の方を「山谷村地方」と称していた。山谷の地名のいわれは諸説があり、はっきりしない。「浅茅が原の続きなので三野といい、野が谷に変わった」という説と、「人家が三軒あったので三屋、三家といい、屋・家が谷に変わった」との説がある。化政期(1804~1830年)の家数401軒(町方書上)。町内西裏側を形状から里俗に「重箱長屋」といった。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、周辺の寺地8ヶ所を合併して、町域を拡げた。同年の戸数546・人口1,885(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府浅草区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市浅草区に所属。1891(明治24)年、浅草地方山谷町、浅草橋場町浅草今戸町の各飛地を合併(Wikipediaでは、浅草地方山谷町、浅草地方今戸町となっている)。

1932(昭和7)年、帝都復興計画の一環により、山谷一~三丁目、清川町一~三丁目、田中町一丁目にそれぞれ編入。その中で山谷の内訳は、当町の一部と吉野町の一部が一丁目、当町の一部と玉姫町浅草町の各一部が二丁目、当町の一部と田中町浅草町の各一部が三丁目である。なお、田中町浅草町の各一部が合併し、同時に四丁目も起立した。こうして再編された「山谷」は奥州街道に跨る南北に細長い町となった。

1943(昭和18)年7月1日、東京都浅草区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。

1966(昭和41)年10月1日、住居表示の実施により、一丁目が清川一丁目と東浅草二丁目の各一部に、二丁目も清川一丁目と東浅草二丁目の各一部に、三丁目が日本堤一丁目と清川二丁目の各一部、四丁目が日本堤二丁目と清川二丁目の各一部に編入となり消滅。

公称では「山谷」の地名は消えたが、山谷堀公園等にその名を留める。嘗て、「山谷」と称していた地域は、現在の東浅草一・二丁目と日本堤一・二丁目の東部、今戸一・二丁目と清川一・二丁目の西部に亘り、かなり広かった。

撮影場所:浅草山谷町

撮影地:台東区清川二丁目13番20号(玉姫稲荷神社)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。