【深川①014】深川蛤町

町番号:深川①014

町名:深川蛤町 一・二丁目

読み方:ふかがわはまぐりちょう Fukagawa-Hamagurichō

区分:町丁

起立:寛永年間(1624~1645年)、三丁目は1686(貞享3)年)

廃止:1931(昭和6)年

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「深川」

現町名:江東区永代二丁目、門前仲町一・二丁目

概要:浜十三町の1つ。江戸初期は海辺新田のうち(備考)。町名は寛永(1624~1645年)から慶安年間(1648~1652年)頃、隅田川を将軍が訪れた際、当地の住民が蛤を献上したことによる説(備考)と蛤や小魚等の魚介類を獲って商売をする者が多かったため(府志料)という2説がある。天秤棒を担いだ行商人が大声で威勢よく歩く町ゆえ、住民の気性も滅法荒かったそうだ。古典落語『鼠穴』にも登場する。

『備考』には①深川永代寺門前仲町南裏通り、②深川大島町北続、③深川北川町続、④深川寺町裏続の4か所に記されている。

永代寺門前仲町南裏通りには慶安(1648~1652年)から天和年間(1681~1684年)までに百姓町屋が建設されたが、南方の川境を「海苔干場」と称した。風浪の災害が多かったため、町屋の取り払いを命ぜられ、以後築き立てられ、大名の下屋敷等になった。当町内の西方には「一丁目」、「二丁目」、「横店(元横店町)」の俗称があった。②深川大島町北続の町屋は古くは内藤外記の所有地。1762(宝暦12)年に並木甚太夫が譲り受けてから町人の持ち地となった。当町を「上二丁目」、北側の堀を「外記殿堀」と俗称した。③深川北川町続の町屋は町人孫三郎が買い受け、町屋敷とした。当町を「三丁目」と俗称した。④深川寺町裏続の町屋は1675(延宝3)年、小川新九郎が買い受け、1726(享保11)年、次右衛門が譲り受け、1734(享保19)年に町家建設が許可された。干鰯問屋が集住していたことから当町を「江川場」、「干鰯場」と称した。他に「三文字屋敷」、「寺裏」、「陽獄寺前」の俗称もあった。以上4つの町屋ともに町奉行・代官の両支配であった。化政期(1804~1830年)の4ヶ所の合計家数は565軒(町方書上)。

現・永代二丁目と門前仲町一丁目の両町内には蛤町堀があった。『文久板本所深川絵図』では、深川大島町の北隣に深川蛤町があり、その北隣深川黒江町との境を東に向かい、南に折れて大島川に出会う堀割を記載。大島川の支堀で、昭和30年代の埋立で消滅。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、深川北川町続の町屋は深川福住町深川寺町裏続の町屋は深川和倉町深川冬木町に編入し、深川大島町続の町屋を深川蛤町一丁目、永代寺門前仲町南裏通り続を深川蛤町二丁目とした。1872(明治5)年の戸数389・人口1,618(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。

1931(昭和6)年、帝都復興計画の一環により、一丁目が永代二丁目に、二丁目が門前仲町一・二丁目に編入となり消滅。

※『角川日本地名大辞典』には「現行の永代2丁目」とあるが間違い。

撮影場所:深川蛤町一丁目

撮影地:江東区門前仲町一丁目3番5号(山岡ビル)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。