【深川①066】深川富岡門前仲町

町番号:深川①066

町名:深川富岡門前仲町

読み方:ふかがわとみおかもんぜんなかちょう Fukagawa-Tomioka-Monzen-Nakachō

区分:町丁

起立:1869(明治2)年

廃止:1911(明治44)年4月30日

冠称:「深川」

現町名:江東区門前仲町一・二丁目、永代二丁目

概要:前身は深川永代寺門前仲町。富岡八幡宮の西南に位置する門前町。嘗ては葭の茂っていた干潟。1627(寛永4)年、富岡八幡宮の別当真言宗大栄山永代寺が拝領。1653(承応2)年、門前町屋を起立。1682(天和2)年の火災で本所・深川が焼失したため家作が禁じられたが、1697(元禄10)年に再び家作が許され、以後町人の所有地となった。永代寺へは地子・夫銀を納めた。1745(延享2)年、町奉行支配となる(備考)。化政期(1804~1830年)の家数566軒(町方書上)。町内には「自身番横丁」、「行留り横丁」、「摩利支天横町」があり、また畳屋平左衛門が住んでいたので「畳横丁」の俗称があった。他に猪口という酒屋があったため、「猪口(ちょこ)長屋」、銀座御用達の大黒屋作左衛門が住んでいたので「銀座長屋」、銭屋平兵衛が住んでいたので「銭屋長屋」と称される所もあった。

深川永代寺門前町と同様に毎年12月に正月の飾り物の市が立ち、7月13日には草市が立った(備考)。1734(享保19)年、紀国屋文左衛門が当町北側の一つ鳥居付近の居宅で死去(武江年表)。町内の忠兵衛店には相撲行司の木村庄之助が代々住んでいた。町内には酒売場伊勢屋嘉右衛門、京都菓子司越後屋播磨等の商店が多かった。また深川花街の草分けの地で羽織芸者発祥地でもあった。隣接する深川永代寺門前山本町とともに、化政期(1804~1830年)には新吉原を凌ぐ花街となり、辰巳芸者は吉原の花魁と艶を競った(岡場所遊廓考)。1838(天保9)年には尾花屋、梅本、山本の3軒の料理茶屋の他、置屋8軒・芸妓77人・娼妓68人を数えた(深川相川町名主の書上)。

前身の深川永代寺門前仲町として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年に「深川富岡門前仲町」と改称。1872(明治5)年、富岡八幡社地の一部を合併。同年の戸数182・人口692(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。1892(明治25)年、新盛座創設(1897(明治30)年に「深川座」と改称)。明治30年代の町内には料理屋のひさご、近藤油店、大野屋足袋店等があった(画報)。

1911(明治44)年5月1日、「門前仲町」に改称して消滅。

後身の門前仲町は、1931(昭和6)年、帝都復興計画の一環により、一・二丁目に再編し、一丁目には黒江町の一部を、一・二丁目には蛤町二丁目を、二丁目には門前山本町を編入。また一部を永代二丁目に編入。1943(昭和18)年7月1日、東京都深川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都江東区に所属。1969(昭和44)年4月1日、住居表示の実施により、現行の門前仲町一・二丁目となる。

※『角川日本地名大辞典』に「現行の富岡1~2丁目・永代2丁目のうち」とあるが間違い。

撮影場所:深川富岡門前仲町

撮影地:江東区門前仲町一丁目7番9号(門前仲町交差点 吉野家メトロ門前仲町店)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。