【深川①008】深川福住町

町番号:深川①008

町名:深川福住町

読み方:ふかがわふくずみちょう Fukagawa-Fukuzumichō

区分:町丁

起立:1869(明治2)年

廃止:存続 「福住」として(但し、現在の「福住」は別の所)

冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1969(昭和44)年3月31日まで「深川」

現町名:江東区永代二丁目

概要:昔は隅田川の河口の洲で、江戸時代に埋め立てられ、網打場、石置場、材木置場等があったが、次第に町屋に発展していった。大島川西支川の左岸、永代通りを挟んで深川中川町の北に位置した。町域のほぼ中央に萬徳院と圓速寺があった。北側の深川伊沢町深川村松町の間には黒江川支流が流れていたが、ほぼ中央に架かっていた坂田橋で往き来できた。

1869(明治2)年、深川北川町深川蛤町の一部、深川奥川町、深川黒江町代地、深川大島町代地を併せ、町域を嘉語を以て命名。1872(明治5)年、新義真言宗瑠璃光寺万徳院・浄土真宗大護山因速寺の寺地を合併。同年の戸数237・人口849(府志料)。1876(明治9)年、渋沢栄一は町域に屋敷を購入し、修繕して本邸とした。それが現在の澁澤シティプレイス永代(永代二丁目37番28号)。1888(明治21)年、兜町に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用した。渋沢は1889(明治22)年から1904(明治37)年まで深川区会議員及び区会議長を務め、深川区の発展のために尽力した。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、1897(明治30)年、当地に渋沢倉庫部を創業した。

1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。

1931(昭和6)年、帝都復興計画の一環により、永代二丁目に編入となったことで町名が消えるところだったが、隣接の一色町伊沢町松村町黒江町が合併して福住町一丁目が、永堀町大住町東永代町材木町が合併して福住町二丁目が名を継いだ。1943(昭和18)年7月1日、東京都深川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都江東区に所属。

1969(昭和44)年4月1日、住居表示の実施により、福住一・二丁目となった。

なお、もとの深川福住町は1931(昭和6)年に永代二丁目となった後、1943(昭和18)年7月1日、東京都深川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都江東区に所属、深川永代一・二丁目となる。1969(昭和44)年4月1日、住居表示の実施により、現行の永代一・二丁目となる。

撮影場所:深川福住町

撮影地:江東区永代二丁目37番23号(萬徳院)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。