【南豊島】千駄ヶ谷八幡町

町名:千駄ヶ谷八幡町

読み方:せんだがやはちまんちょう Sendagaya-Hachimanchō

区分:町丁

起立:1869(明治2)年3月16日

廃止:1874(明治7)年3月7日

冠称:「千駄ヶ谷」

後身:千駄ヶ谷一~三丁目

現町名:渋谷区千駄ヶ谷一・二丁目、新宿区霞ヶ丘町、港区北青山一丁目

概要:『角川日本地名大辞典』にはないが、渋谷区の資料を見ると、1869(明治2)年3月16日に、千駄ヶ谷瑞円寺門前(町)、千駄ヶ谷聖輪寺門前、千駄ヶ谷神明門前が合併して起立したようだ。1874(明治7)年3月8日、千駄ヶ谷一~三丁目に編入となり消滅。千駄ヶ谷地区で「八幡」といえば、「千駄ヶ谷八幡(現・鳩森八幡)」のことだが、当町の由来は違っていた。

なお、千駄ヶ谷大番町は明治初年に当町の一部を編入している、とあるが真偽不明。

※『角川日本地名大辞典』では、千駄ヶ谷瑞円寺門前(町)と千駄ヶ谷聖輪寺門前は1872(明治5)年に千駄ヶ谷二丁目に、千駄ヶ谷神明門前は明治初年に千駄ヶ谷一~三丁目に編入となり消滅となっている。


以下は以前、古地図を眺めて悶々と考えていた事柄だが、残すことにする。

『明治二年東京全図』(1869(明治2)年)には当町の名前はない。ましてや千駄ヶ谷町の表記さえない。しかし、『新撰區分東亰明細圖』(1876(明治9)年)に突然「八マン丁」が複数出現する。1874(明治7)年には消滅しているはずであるが…。

まず、①東京体育館交差点より北側の現在国立競技場の敷地内となる神明社の隠田川川向こう。これは現在の外苑西通り、外苑橋南の東の辺り。

さらに②これも現在は神宮外苑の敷地内、青山三筋町の方面にあった八幡社の北側(神明社は太神宮として権田原にあったが、1908(明治41)年11月に鳩森八幡神社の末社となり、境内に遷座)。

また逆方面の③内藤新宿南町の南で、玉川上水を挟んで代々木新町のあるところ(全労済ホール/スペース・ゼロ(渋谷区代々木二丁目12番10号)辺り)。とくにここは丁寧に「千タヶ谷八幡丁」との書き込みがある。しかし近隣に神社は存在せず、『渋谷区域行政区画等変遷』には存在しない。

『新撰區分東亰明細圖』には以上3ヶ所に「八マン丁」若しくは「千タヶ谷八幡丁」の記載がある。しかしこの3地域は「千駄ヶ谷八幡町」を名乗りながら、総鎮守である千駄ヶ谷八幡(現・鳩森神社)に由来するものなのかは不明。

隠田川観音橋の架かっていたところから西方面に向かう坂を「観音坂」という。これは坂の右手に目玉観音の異名を持つ聖輪寺に由来する。聖輪寺の前には千駄ヶ谷聖輪寺門前があった。また坂道左手方向奥には瑞圓寺があり、そこから千駄ヶ谷八幡(現・鳩森八幡神社)までの道南側には千駄ヶ谷瑞圓寺門前(町)があった。観音坂下から千駄ヶ谷八幡までの千駄ヶ谷大通り両側はその門前に加え、千駄ヶ谷町で構成されており、今は見る影もないが、当時はかなり繁華であったことが容易に想像できる。しかし、その「千駄ヶ谷八幡町」という町名と千駄ヶ谷八幡との関係性は不明だ。ただ、『土地概評価. 豊多摩郡千駄ヶ谷町 大正9年11月調』によると、大正時代にはそこだけが「千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷字八幡前」となっていて、町内唯一の八幡由来の地であることが強調されている。

撮影場所:千駄ヶ谷八幡町

撮影地:渋谷区千駄ヶ谷一丁目無番地(外苑橋交差点北東側)

新町 千駄ヶ谷仲町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。