【芝②】芝岸町

町名:芝岸町

読み方:しばきしまち Shiba-Kishimachi

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:江戸期

冠称:「芝」

後身:芝永井町

現町名:港区芝公園三丁目5・6番

概要:『沿革図書』に1713(正徳3)年11月、神田の白壁町の東方で道の向かいにあった松平造酒丞、土屋薩摩守の屋敷が召し上げられ、増上寺近辺芝片門前(町)芝永井町芝富山町芝七軒町、芝岸町の代地町屋となったとあり、『武江年表』では1721(享保6)年、芝永井町、芝岸町、芝富山町が増上寺の火除地となって神田に代地を下されたとする。『麻布区史』は、幸稲荷社地である光宝寺を「芝岸町」とするのをみれば、前身の岸村(岸之村)2,000石の地は赤羽川以北の飯倉から芝山内一帯の地を指したものかも知れないとしている。

以下、前身の岸村又は岸之村について触れる。『三縁山志』、『文政寺社書上』、『備考続編』には、幸稲荷社は武蔵国豊島郡岸村(岸之村)の鎮守であるとある。岸村(岸之村)は「郭公の名所」、「鎌倉街道岸の時鳥の名所」といわれ、幸稲荷社は「古跡の社地 岸稲荷大明神」というなどの記述が見える。村名は「陸地が水に接する地の意か」(港区沿革図集)とあるが、その水とは古川の流れか或いはその氾濫池であるさよが池(ゆりが淵)の畔の意か、さらには海岸線がこの丘脈端にまで迫っていたことの意かは明瞭でない。前引用のように鎌倉街道岸つまり榎坂付近を通過したと思われる鎌倉街道の畔であるかも知れないが、これも明らかではない。岸村(岸之村)が江戸市中の町に組み入れられて芝岸町となったものと思われる。岸村(岸之村)は現行の芝公園西部を中心にした村であったのであろう。

なお、『延宝6年江戸方角安見図』に「きし門前」、『元禄16年改撰江戸大絵図』に「キシ門前」とあるのは、岸村(岸之村)から芝岸町へ移行する間に幸稲荷付近に人家が集約されて、その門前町のように見做されたか或いは増上寺が麹町から移転してきて後、その裏門前に見做されるようになったかのいずれかであろう。古地図上の位置から現在町域を比定すると、芝公園三丁目1、5番付近とみられる。幸稲荷神社は、江戸時代初期の寛永年間(1624~1645年)に府内古社十三社に定められ、東京でも最も古い神社の1つと考えられている。創立は時代をさらに遡る1394(応永元)年4月、武蔵国豊島郡岸村(岸之村)(現在の芝公園地十号地。現・芝公園二丁目2番)の鎮守として勧請されたと伝えられている。江戸時代には境内に講談寄席、大弓場、水茶屋等が常設され非常な賑わいをみせていた。社号ははじめ「岸之稲荷」と称していたが、氏子・信者中に幸事が続出したためいつの頃からか、「幸稲荷神社」と尊称されるようになった。

飯倉神明(芝大神宮)の創建後、移転という伝承が正しいと思われる。この岸村(岸之村)が鎌倉街道に面していたというのは、どの道筋を指すか不明であるが、三田台上を来た道が海岸寄りを通り、三丁目6番と四丁目一番間の永井坂へ出ていたものかもしれない。芝公園三丁目14番に立つ四尊仏も増上寺来転以前に鎌倉街道に面してあったという説や、天正年間(1573~1592年)、弁天池に女性が投身したということも街道筋ゆえに伝えられた話と考えられ、当地が交通要地となっていた1つの徴とはなるであろう。1624(寛永元)年より「幸稲荷神社」と改称。後に移転したが、さらに1713(正徳3)年、徳川霊廟用地となったため現地に移ったという。なお、神社だけが移ったのか、町ごと移転したのかは不明。

当地域は後に芝永井町となったものと考えられる。

撮影場所:芝岸町

撮影地:港区芝公園三丁目5番27号(幸稲荷神社)

永井裏門前町 芝御掃除町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。