【本所②】小梅代地町

町名:小梅代地町

読み方:こうめだいちまち Koume-Daichimachi

起立:江戸期

廃止:1869(明治2)年

冠称:「小梅」

後身:柳島町小梅町

現町名:墨田区錦糸四丁目、吾妻橋三丁目、東駒形四丁目

概要:現在の墨田区立錦糸公園辺りと本所吾妻橋駅付近の2ヶ所にあった。

錦糸公園方は、「四之橋通小梅代地町」といった。元禄年間(1688~1704年)に小梅村の代地となったため、「小梅代地町」を称していた。葛飾郡西葛西領のうち。四之橋通中之郷代地町の北に接する。町奉行・代官両支配、535坪5合、家数7軒(町方書上)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、柳島町に編入となり消滅。

本所吾妻橋駅方は、古くは葛飾郡小梅村のうち。小梅村に水戸藩下屋敷ができたため、その部分で代地として源森川南岸に与えられた。元禄年中(1688~1704年)は代官伊奈氏支配地。1713(正徳3)年から町奉行・代官両支配となる(備考)。化政期(1804~1830年)の家数180、反別は1町7反1畝14歩。1734(享保19)年に町内の中程にあった千葉山満願寺(当山派修験)沼地とも90坪の土地が鷭場として召し上げられ、寺は請地村へ移転した。町内の北側に業平天神社があり、俗に「業平前」、「業平町」と称した。また、西側には銀座の大黒長左衛門の住居があったので「銀座長屋」と俗称した(備考)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、「小梅町」と改称して消滅。現行の吾妻橋三丁目、東駒形四丁目のうち。

※『角川日本地名大辞典』によると、四之橋通小梅代地町は「1869(明治2)年に本所太平町2丁目に編入。現在の太平2~3丁目・錦糸1~3丁目のうち」としているが、後身は柳島町であり、現在地は錦糸四丁目である。

なお、『嘉永新鐫本所繪圖』では墨田区立錦糸公園の南西角に「小梅代地町」とあり、『本所絵図』では同地が「中之郷代地町」、そしてその北側が「小梅代地町」となっている。

撮影場所:小梅代地町(四之橋通小梅代地町)

撮影地:墨田区錦糸四丁目15番(墨田区立錦糸公園)

深川六間堀代地町 南本所東町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。