【本所②】中之郷代地町

町名:中之郷代地町

読み方:なかのごうだいちちょう Nakanogō-Daichichō

起立:江戸期

廃止:1869(明治2)年

冠称:「中之郷」

後身:本所吉岡町本所吉田町本所太平町一丁目柳島町

現町名:墨田区石原三・四丁目、太平一丁目、錦糸四丁目

概要:本所吉岡町続き、本所吉田町続き、法恩寺前続き、四之橋通りの4か所にあった。『本所繪圖 : 嘉永新鐫』ではなく、『本所絵図』や『北本所大川ヨリ横川辺右石原北割下水迄 : 天保一一年八月ノ形』、『北本所横川ヨリ亀戸迄 : 天保一一年八月ノ形』を参考にすると全てを確認できる。

本所吉岡町代地は1702(元禄15)年に中之郷元町のうちが御用地となり、1705(宝永2)年に代地となる。本所吉田町代地は1706(宝永3)年に中之郷横川町のうちが御用地となり、1707(宝永4)年に代地となる。法恩寺前続き代地は1693(元禄6)年に中之郷横川町のうち、四之橋通代地は1706(宝永3)年に中之郷横川町のうちが御用地となり代地になる。いずれも1713(正徳3)年に町奉行・代官両支配となる(備考)。1828(文政11)年の家数102(町方書上)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、それぞれ本所吉岡町本所吉田町本所太平町一丁目、柳島町に編入となり消滅。

※『角川日本地名大辞典』では「同(明治)2年本所吉田町本所太平町1~2丁目に編入。現行の太平1~3丁目・錦糸1~3丁目のうち」とあるが間違い。また、『角川日本地名大辞典』の本所太平町の項によると、四之橋通代地は1869(明治2)年に本所太平町二丁目に編入されて消滅となっているが、四之橋通代地の位置は、四ツ目通りに面して東、本所南割下水(現・北斎通り)に面して北、現・墨田区立錦糸公園南西隅なので、1932(昭和7)年までの柳島町、それ以後は錦糸町四丁目、現・錦糸四丁目である。

なお、『嘉永新鐫本所繪圖』や『大江戸今昔めぐり』では、墨田区立錦糸公園の南西は「小梅代地町」とあり、「四之橋通中之郷代地町」の記述はない。

撮影場所:中之郷代地町(四之橋通中之郷代地町)

撮影地:墨田区錦糸四丁目15番(墨田区立錦糸公園)

本所新坂町 北本所代地町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。