【深川②】深川橋富町

町名:深川橋富町

読み方:ふかがわはしとみちょう Fukagawa-Hashitomichō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:1798(寛政10)年 1797(寛政9)年とも

冠称:「深川」

後身:御用地

現町名:江東区常盤一丁目

概要: 1722(享保7)年8月の『江戸町火消受持区域一覧』の本所・深川十六組には「中組 七組」として、「深川元町辺、六間堀町辺、森下町辺、御舟蔵前町、橋富町、八幡御旅所町」として載っている。

現在の江東区常盤一丁目にあたり、当時の深川六間堀町の南側に位置した。しかし、1798(寛政10)年には幕府御用地となり消滅(東京都の地名(平凡社))。

となると、当町の存在した地域が判明してくる。六間堀沿いにあった深川北六間堀町(当時は深川六間堀町北組といったはずで、そう改称したのは1869(明治2)年であるが、『本所深川繪圖』には北六間堀町とある)の南側、「御籾蔵」とある箇所の北東辺りである。

『御府内備考』には、「籾蔵は、元町の北の方浅草川と六間堀との間にあり、南北五十間東西八十間余の構にして、その中に数宇建連ねり、此地はもと橋富町といひし町地なりしか、寛政九年御用地に上られ、同き十年新に此蔵を建らる、或書に寛政十年より享和元年まて四年を歴て五間に三十間の土蔵十一棟を建らるゝとあり、又是よりさき寛政四年より同八年まてに向柳原へ十二棟を作られ、その後此地にも建させられ、又近き年筋違橋の内に建そへられて文化二年まて都合二十九棟出来しとあり」とある。

※この情報はある方からいただきました。情報提供者がどなたであるかここで明らかにすると、その方に多大なるご迷惑をおかけすると想定されますので、敢えてお名前は控えさせていただきます。本当に有難うございました。 

撮影場所:深川橋富町

撮影地:江東区常盤一丁目10番8号(河合米店(こめ工房河合))

下元町 柳代町


江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。