【麻布②】麻布町
町名:麻布町
読み方:あざぶまち Azabumachi
区分:総称
起立:江戸期
廃止:明治初年
冠称:なし
後身:麻布本村町、麻布一本松町、麻布坂下町、麻布永坂町、麻布北日ヶ窪町、麻布南日ヶ窪町、麻布宮村町、麻布三軒家町、麻布広尾町、三田古川町、三田松坂町
現町名:港区南麻布一~五丁目、元麻布一~三丁目、麻布十番一~四丁目、麻布永坂町、東麻布三丁目、六本木五・六丁目、西麻布三丁目、高輪一丁目、白金一、三、五丁目、三田四・五丁目、渋谷区広尾五丁目等
概要:「阿佐布」(役帳)、「安座郡」(江戸名所記)、「浅府」(江戸雀)、「浅生」、「麻生」(再校砂子)とも書く。白金台北方の台上と周辺に位置。由来は麻が生えていたから、麻生・麻布を生産したため、浅茅生が浅生となったという説等がある(砂子、新編江戸志、温故名跡志等)。「麻布」の初出は1690(元禄3)年頃に「麻布」と書き換えたという。
「阿佐布」とは、戦国期に見える地名。豊島郡白金郷に属す。初見は永禄年間(1558~1570年)の『役帳』で、小田原北条氏の家臣御馬廻衆の狩野大膳亮の所領「五拾三貫弐百文 江戸阿佐布」と見え、他に江戸衆の島津孫四郎「三拾八貫百五拾文 飯倉内桜田 善福寺分」とある。善福寺は親鸞上人の弟子了海の真宗改宗を伝え、1320(元応2)年に入寂。既に当時から当地に善福寺が建立されていたと思われるが、山号の麻布山がいつから用いられたかは不明。『役帳』の飯倉内桜田、善福寺分の記載は当時、善福寺が桜田(現・千代田区)にあったか、桜田の地に善福寺の寺領があったのか不明。小田原北条氏は長尾景虎(上杉謙信)との抗争で、越中国の一向宗門徒との関係が生じ、大坂の一向宗の本寺、石山本願寺との関係を密にし、1566(永禄9)年10月2日付の虎印判状をもって、一向宗を保護する旨を述べている。関東七霊場の1つとして江戸期にいわれるのも、この頃からであろう。当寺には、本願寺教如・下間頼龍の書状数点を伝え、箱根(現・神奈川県)の箱根神社所蔵の中に北条早雲の子長綱幻庵に宛てた元亀年間(1570~1573年)と推定される下間頼充の書状にも小田原北条氏と越中の一向宗門徒との関係で、善福寺僧が重要な役目を担っていたことが判る。1590(天正18)年5月、小田原攻めの最中の豊臣秀吉は禁制を下し、逸早く武蔵の要路にあたる当地を押さえている。宛所は「武蔵国白金之郷阿佐布善福寺」と記している(善福寺文書/武文)。しかし、1607(慶長12)年3月28日付の埼玉県川越市光西寺所蔵の本願寺教如の顕如上人真影の賛に「武州豊島郡飯倉郷阿佐布善福寺」と飯倉郷に属していた旨が見える。
「阿佐布村」とは、豊島郡麻布領のうち。幕府領。1600(慶長5)年、関ヶ原の戦の首実検を阿佐布で行ったという(慶長見聞集)。『田園簿』の村高745石余。田291石・畑454石、うち幕府領428石、鎮守山王社領137石余、芝大養寺領66石余、天徳寺領58石余、神田明神社領38石余、柴明神社領16石余、他に善福寺領10石。1669(寛文9)年の総反別は61町4反余(新編武蔵)。『元禄郷帳』、『天保郷帳』、『旧高旧領』では「阿佐布町」、「麻布町」と見える。
「麻布町」とは、豊島郡麻布領のうち。幕府領。古くは「阿佐布村」と称す(新編武蔵)。『元禄郷帳』では阿佐布村の記録はなく、阿佐布町296石余、阿佐布町枝郷坂下町11石余とある。『旧高旧領』の石高は257石余。阿佐布村は、寛文年間(1661~1673年)までに町場化が進み、1713(正徳3)年以降は町奉行支配に属し、『新編武蔵』には本村町、一本松町、坂下町、永坂町、南日ヶ窪町、北日窪町(ママ)、宮村町、宮村代地町、三軒屋町(ママ)、広尾町、永松町、古川町の12ヶ町とあり、以上を「麻布町」と総称したが、慣用の地域名は「麻布」だけであった。また同書には「在方分」4町4反余として堀大和守抱屋敷、植村駿河守抱屋敷、山内遠江守抱屋敷、土屋相模守抱屋敷、保科弾正抱屋敷、亀井大隅守屋敷、小出主水抱屋敷、毛利甲斐守屋敷、光林寺抱地、延命院抱地、本光寺抱地等を記す。
各町は明治以後、武家地・寺社地を加えて、麻布本村町、麻布一本松町、麻布坂下町、麻布永坂町、麻布北日ヶ窪町、麻布南日ヶ窪町、麻布宮村町、麻布三軒家町、麻布広尾町、三田古川町、三田松坂町となる。
撮影場所:麻布町(麻布本村町)
撮影地:港区元麻布二丁目14番18号(仙台坂上交差点 民家)
飯倉町→
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