置行堀(置いてけ堀)
これが一番有名なんじゃないかねぇ。取り残されちゃうことを言うでしょう?「置いてけ堀喰らったよー」とか。その語源がこの話。
“悪戯”の正体は河童とも狸とも言われている。墨田区としては河童推しなんだけど、老舗の人形焼屋「山田家」は狸推し。そこが統一されてないのもこれまた不思議。
さらに場所も特定されてないんだ。3箇所ぐらいが「ここだよ」「いやこっちだ」と譲らない。今日はその3箇所を全部廻ったから観てちょうだい。っつったって、どこも全部至近なんだけどね。
この絵は歌川国輝によるもの。何だいこりゃ、これじゃ河童でも狸でもねえだろ、お化けじゃねえか。えっ、お化け?ひぃーーーー。
―以下全てお話部分はWikipediaを引用―
本所付近は水路が多く、魚がよく釣れた。ある日仲の良い町人たちが錦糸町あたりの堀で釣り糸を垂れたところ、非常によく釣れた。夕暮れになり気を良くして帰ろうとすると、堀の中から「置いていけ」という恐ろしい声がしたので、恐怖に駆られて逃げ帰った。家に着いて恐る恐る魚籠を覗くと、あれほど釣れた魚が一匹も入っていなかった。
この噺には他にも「現場に魚籠を捨てて逃げ帰り、暫くして仲間と一緒に現場に戻ったら魚籠の中は空だった」、「自分はすぐに魚籠を堀に投げて逃げたが、友人は魚籠を持ったまま逃げようとしたところ、水の中から手が伸びてきて友人を堀に引きずり込んで殺してしまった」、「釣り人以外にも、魚を持って堀を通りかかった人が魚を奪われた」、「声を無視していると金縛りに遭った」などの派生した物語が存在する。
ってことでね、「うちが本物の置いてけ堀だ」と譲らない各地を全部廻ってみよう。
JR錦糸町駅南口から出発!
国道14号(京葉道路)を東にやや進むと、松代橋ってぇ橋がある。ここいらは元々「本所松代町」って言ったんで、そこに架かる橋だからそういう名前なんだ。でも1880(明治13)年までは「深川北松代町」って言ったんだよ。
「松代って何?」ってか。深川に松代藩真田家の控え屋敷があったんだけど、そこが公用地になったからってんで、現在の墨田区江東橋に移ってきたんだよね。そんで深川北松代町となったわけだ。その後、深川区と本所区の間で境界線変更があって、本所松代町になるわけだけど。
で、その東側に流れる横十間川という川。これは地図で見ると縦に流れる。でも「横って?」。そうだよ、江戸城から見て縦(竪)なのか横なのかなんだよね。
話が長くなった。その松代橋を東に渡るとそこはもう江東区亀戸。「亀戸はもと城東区だろ、本所じゃねえじゃねえか」っていう人もいると思うけど、東京市誕生前の本所区の地図ちゃんと見てみてよ、横十間川の天神橋を渡ってから亀戸天神まで、それにこの松代橋渡ってからすぐ、それと1本南の旅所橋渡って、竪川沿いに五之橋辺りまでが東にびよよよーんって伸びてるでしょう?亀戸もその部分だけは本所だったんだよ。
だから亀戸が「こここそが『本所七不思議』の『置行堀(置いてけ堀)』跡地だ」と名乗りを挙げても全然不思議じゃないんだよ。
ほんじゃビルとビルの間に見える緑の屋根んとこに行ってみよう。
そうそう、余談だけど、この橋を渡って東詰北側に「まつしろ歯科」っていうのがあって、その院名は「歯が真っ白(まつしろ)」っていうのにかけてんだってさ。
さあ、緑の屋根んとこに来たよ。さてここはどこかって言うと、江東区立第三亀戸中学校。ここに最初に来てみた。
1909(明治42)年の地図によると、この三亀中の四角い土地にハッキリ「オイテケ堀」と書いてあるんだな!
学校の敷地にしっかり碑まで置いちゃってまぁ。
江東区登録史跡 おいてけ堀跡
↑ 詳しくはこれを読んでねー。画像を拡大すると「オイテケ堀」と書いてあるのが判る。
んで、2箇所目。これが一番有名なんじゃないか?松代橋を渡り直して墨田区に帰って来た。墨田区立錦糸堀公園の河童君。
江戸~明治期の地図を見るとここには池があんね。この辺りは金魚の養魚が盛んだったらしく、ここもそうだったみたいだよ。明治になってから工場排水のせいで商売にならなくなって、大半が現・江戸川区の方に移ってったようだけどね。
こんな河童が出て来てもおっかなくないね。
さてここは人々が「The Kinshichō」というイメージを抱いている場所。そう、猥雑で危険な街っていう…。花壇街ね。
でもまぁたしかにここはぼったくりバーに性風俗産業、ラヴホテルに囲まれた場所。その谷間のようにぽこっと空いた不思議な空間。フィリピンパブやロシアパブもあるしね、国際色豊かだよ。それに朝鮮・韓国人、中国人が実に多い。
色っぽい店に思わず入った場合、やっぱし言われんだろうな、「お金を置いてけ、身ぐるみ置いてけ」って。
↑ 詳しくはこれを読んで~。
ハイタウン錦糸町の立田薬局の前にも河童君。向こうに見える小屋(公衆便所)の前にさっきの河童君がいる。
公衆便所の前には河童君の大好物が泳ぐ。
舗道にタイルとして埋め込まれてる。墨田区ガンガン推し。
アップで撮ってみた。「堀」の字が欠けちゃってんなぁ。
ダービー通りの方に向かうともう1枚あった。こっちは欠けてなかった。
で、総武線のガード潜って北口に来た。ここが「こここそが置いてけ堀だ!」と主張する3箇所目んところ。
「何だよ、道じゃねえかよ」と思うでしょう。そう、ここは北斎通りという道。あの葛飾北斎が生まれた所がここから西の方にちょっと行くとあるからその名前になってるんだけど、ここはもともと堀だった。「本所南割下水」っていう堀で、横十間川から江戸東京博物館の東側まで流れていた。
「下水」っつったって、今の下水たぁ違うよ。ここも1659(万治2)年に他の堀と同時に掘られたもので、雨水の排水路として使われてた綺麗なもの。飲み水としては使われなかったようだけど魚も泳いでたんだよ。時代劇で道の真ん中に小さな川が流れてるシーン、よく見るでしょ、あれだよ。
で、この本所南割下水っていうのは別名「岸堀」って言われてて、さらに水面が日光にきらきらと反射する様から訛って「錦糸堀」と言われるようになったんだよ。それが「錦糸町」という名前の由来。
で、その後、チンチン電車が走るようになって、この町は城東一の電車乗入れ地になったんだけど、その停車場名が「錦糸堀」。ってことで今の錦糸町駅の北側の電停も南側の電停もみんな「錦糸堀」という名前。錦糸堀があったのは北口なんだけど、南口まで錦糸堀と呼ばれるようになった。
その後、堀が暗渠され、北口の電停が「錦糸町駅前」と改称されても、南口には錦糸堀車庫や錦糸堀電停が残り、さらに都電が廃止されて都バスになった今でも南口のバス停名に錦糸堀は残っちまっている。さっきの河童君がいるところが「錦糸堀公園」という名前なのもそういう理由。錦糸堀自体は北口にあったんだけど、広域地名になっちまったんだな。それが混乱を招いてるんだよね。
第三亀戸中学校も錦糸堀公園も昔はたしかに池だった。その池から地図には載らない細い水路はあった。でも「置行堀(置いてけ堀)」として一番相応しいのはちゃんと堀だったこの「本所南割下水=錦糸堀」だと思うんだけどな。ちなみに「錦糸堀」とは本所南割下水全域ではなく、位置としては直角に交わる大横川以東をそう呼んだらしいね。
錦糸町、今や東隣の亀戸と一緒に東京副都心の1つとして数えられる。しかし、賑やかな街だ。錦糸町は今やとても怪談の似合う場所ではなくなったね。
考えてみたら朝から何も喰ってなかった。ってか、起きたの昼だしね。ってことで魚が喰いたくなるといつも来るタワービュー通りにある錦糸町小町食堂へ。「腹が減っては戦は出来ぬ」だもんね。
ご飯は要らない。秋だからやっぱり秋刀魚の塩焼き(290円)!脂がノッてて美味いこと。
さんまはやっぱり本所に限る!
ごっそさん!…チャリンコだから酒は呑まない。うーん、ホッピー引っ掛けたかったなぁ。さて、次行きますか!
※両国の御竹蔵跡も「こここそが置いてけ堀」と主張している。墨田区による説明板も日大一中高の東に立てられてる。本所南割下水の西端辺りだからおかしかないんだけどね。でもそこは割愛。
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