【南葛飾】本所亀戸町

町名:本所亀戸町

読み方:ほんじょかめいどちょう Honjo-Kameidochō

区分:町丁→大字→町丁

起立:1664(寛文4)年

廃止:存続 「亀戸」として

冠称:1889(明治22)年4月30日まで「本所」

現町名:江東区亀戸二・三丁目

概要:古代は「古代の下総国葛飾郡」のうち。江戸期の利根川東遷事業により、利根川西岸になったことで武蔵国へ編入され、武蔵国葛西郡西葛西領亀戸村のうちとなった。

1664(寛文4)年、百姓町屋が起立され、1697(元禄10)年に町並地となった。年貢は亀戸村を通じて上納。検地は1697(元禄10)年。石高は40石余。正徳3年閏5月11日(1713年7月3日)に本所の町地が町奉行に移管された際に、町奉行と代官の両支配地となった。亀戸天神社地と地続きなので「天神町」と俗称。文政年間(1818~1831年)の家数182軒(町方書上)。黄檗宗慈雲山光蔵寺があった。

亀戸天神社について詳述する。正保年間(1644~1647年)、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。そして1661(寛文元)年、江戸の本所亀戸村に辿り着き、元々あった天神の小祠に道真所縁の飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町を定め、四代将軍家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。そして1662(寛文2)年、地形を初め社殿、楼門、回廊、心字池、太鼓橋等が太宰天満宮に倣い造営された。本殿の扁額は、御本社である筑紫国太宰府天満宮宮司であった西高辻信貞による揮毫。古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」或いは「亀戸宰府天満宮」、「本所宰府天満宮」と称されていたが、1873(明治6)年に府社となり亀戸神社、1936(昭和11)年に現在の亀戸天神社となった。

明治元年11月5日(1868年12月18日)、東京府に所属。1869(明治2)年、亀戸清水町亀戸境町を合併。1870(明治3)年、付近の信濃上田藩松平氏邸上地跡を合併。1872(明治5)年、亀戸清水町亀戸境町を再び分離させて、東京府南葛飾郡亀戸村に再び編入。同年の戸数87・人口346(府志料)。1877(明治10)年、亀戸不動町を編入。

1878(明治11)年11月2日、東京府本所区に所属。1889(明治22)年5月1日、市制町村制施行が施行された際に横十間川以西が東京府東京市、以東が東京府南葛飾郡とされ、南葛飾郡内の各村も合併・再編された(「明治の大合併」)。当町は東京府南葛飾郡亀戸村大字亀戸町、大字亀戸字水神西宅地、大字柳嶋字十三間、字砂原、大字小梅字天神前、字清水となる。それまでの亀戸村も、新設の各村(新)亀戸村、大島村、吾嬬村、そして東京府東京市深川区・本所区へ編入された。

なお、大島村に編入された区域は東京府南葛飾郡大島村大字亀戸、吾嬬村に編入された区域は東京府南葛飾郡吾嬬村大字亀戸になり、「亀戸」の地名は残ったが、大島町(1900(明治33)年7月19日町制施行)が1915(大正4)年8月31日に、吾嬬町(1912(大正元)年9月1日町制施行)が1930(昭和5)年に、それぞれ町内の大字と小字を改編したことで、大島町大字一~八丁目、吾嬬町大字東一、五丁目となったため、区域内における「亀戸」の地名は消滅した。

また、東京府東京市に編入された区域は、暫定的に深川区並びに本所区内の「村」として残っていたが、1891(明治24)年に近隣の町域に組み込まれて消滅。即ち、東京府東京市深川区亀戸村字南江耕地が深川猿江裏町に、字大横川が深川東町に、字古石場が深川古石場町に、東京府東京市本所区亀戸村字水神西宅地(飛地)が押上町に、字矢場耕地が本所太平町一・二丁目、柳島町本所錦糸町本所柳原町一・二丁目に、字大横川が本所柳原町三丁目にそれぞれ編入された。

現在の亀戸はこの時に成立した(新)亀戸村の区域である。これには東京府南葛飾郡(旧)亀戸村の大部分、深川出村、南本所出村、北本所出村の各一部(飛地)の他、柳島村、小梅村、中之郷村、押上村の各一部、東京府東京市本所区本所亀戸町(上述の亀戸町)、本所松代町四丁目(もと深川北松代町四丁目)、本所瓦町(もと南本所瓦町)、本所五ノ橋町(もと中之郷五之橋町小梅五之橋町)の各全域が含まれた。

1900(明治33)年7月19日、亀戸村が町制施行して東京府南葛飾郡亀戸町となる。1915(大正4)年8月31日、12の大字名が整理統合され、大字一~九丁目となる(小字は廃止される)。

1932(昭和7)年10月1日、東京府南葛飾郡全域が東京府東京市に編入。亀戸町の区域は東京府東京市城東区となる。亀戸町の大字一~九丁目はそのまま東京府東京市城東区亀戸町一~九丁目の9ヶ町になる。1943(昭和18)年7月1日、東京都城東区に所属。

1945(昭和20)年3月15日の東京大空襲で亀戸の大部分が焼失したが、旧中川沿いの亀戸九丁目の大部分は焼け残った。これを受け、毎年8月15日に旧中川東京大空襲犠牲者慰霊灯籠流しが開催されている。1947(昭和22)年3月15日、城東区が深川区と合併して東京都江東区が発足。江東区亀戸一~九丁目となる(旧本所亀戸町のあったところは亀戸二・三丁目のうちの一部のみ)。1968(昭和43)年8月1日に一~八丁目が、同年12月1日には九丁目が住居表示を実施し、現行の亀戸一~九丁目となる。

なお、亀戸天神社は、江東区亀戸の総鎮守ではなく、墨田区南部の、それも殆どがJR総武線線路以南の地域の総鎮守である。氏子を現町名で羅列すると、墨田区両国二~四丁目、一~四丁目、江東橋一~五丁目、立川一~四丁目、菊川一~三丁目、錦糸四丁目、太平四丁目と、江東区亀戸一丁目(一部)、亀戸三丁目(宮元会のみ)となっている。ちなみに亀戸地区の総鎮守は亀戸天神社の至近にある香取神社である。


なお、そもそもの「亀戸」について以下に詳述する。


[亀戸] 中川の西岸、竪川の北岸に位置する。地名の由来は、村内に「亀ヶ井」という古井戸があったことによる説、昔当地が孤島で、亀に似た形状から「亀島」」(又は「亀ヶ島」、「亀津島」)、後に島の周辺に土砂が堆積して周りの島々と陸続きになって「亀村」と称されたが、その後「亀ヶ井」と「亀村」が混交して「亀井戸」となり、中略して「亀戸」と書くようになったとする説がある(新編武蔵)。亀津島の津(「つ」は古語で「の」の意)が「と」に変化したものとする説もある。

[近世]亀戸村 葛西郡西葛西領のうち。幕府領。『田園簿』には2,329石余で殆どが田地。検地は1697(元禄10)年、1733(享保18)年等(新編武蔵)。元禄年間(1688~1704年)までは寺社地、諸大名の抱屋敷等の武家地が多かったが、一部の百姓町屋が起立され、また1697(元禄10)年には村内5町5反余の地が家作免許となり、本所亀戸町、亀戸清水町亀戸境町が起立された。『元禄郷帳』の村高は1,254石余。以後、新田開発がなされ、1,386石余(新編武蔵、天保郷帳)となる。飛地が数ヶ所あった。化政期(1804~1830年)の家数268軒。

鎮守は香取社、江戸六阿弥陀6番目の曹洞宗西帰山常光寺をはじめ、江戸三十三所観音の30番目の新義真言宗智山派普門院、荒川辺八十八所弘法大師巡拝所74番の新義真言宗医王山宝蔵院龍光寺、同73番東林山華蔵院宝蓮寺、黄檗宗天恩山五百大阿羅漢禅寺等、多数の寺院があった。

竪川沿いの道を「元佐倉道」といい、中川には西小松川村への逆井の渡しがあった。また、当村には1855(安政2)年まで銭座が置かれ、寛永通宝の文字銭、二十一波銭、十一波銭等の銅銭が鋳造された(新編武蔵)。寛文年間(1661~1673年)の創立と伝える大宰府天満宮(亀戸天満宮)は藤や梅の名所と知られ、安藤広重の錦絵『江戸名所花暦』には「此池に添いて左右藤棚あり(中略)真っ盛りの頃は池にうつりて紫の水を流せるがごとし」とある。天満宮の東北4丁程の百姓喜右衛門宅の庭は「清香庵」といい、俗に「梅屋敷」とも呼ばれ、徳川光圀が命名したという「臥龍梅」という梅の古木があった。また、梅屋敷内には亀戸の地名の起源となった亀ヶ井があったと伝える(新編武蔵、葛西志)。

慶応4年7月10日(1868年8月27日)、武蔵知県事の管轄地となる。明治元年11月5日(1868年12月18日)、東京府葛飾郡亀戸村となる。1872(明治5)年の戸数379・人口1,878(府志料)。同年、本所亀戸町の一部を編入。1878(明治11)年11月2日、東京府南葛飾郡亀戸村となる。1889(明治22)年5月1日、亀戸村、大島村、吾嬬村の大字となる。

[近代]亀戸村 江戸期からの亀戸村の一部と深川出村、北本所出村、南本所出村の3ヶ所の飛地。本所区柳島村の一部、本所亀戸町、本所松代町四丁目本所瓦町本所五ノ橋町、小梅村、中之郷村と押上村の飛地を合併し、新たに南葛飾郡亀戸村が成立。大字は合併村を継承し、12大字を編成。1891(明治24)年、飛地を深川猿江裏町に編入。1900(明治33)年7月19日、亀戸町となる。

[近代]亀戸 ①はじめ南葛飾郡亀戸村、大島村。1900(明治33)年7月19日からは亀戸町、大島町の大字。もとは南葛飾郡亀戸村の一部。1915(大正4)年8月31日、亀戸町一~九丁目、大島一~八丁目となる。現行の亀戸一~九丁目、大島一~九丁目のうち。②はじめ南葛飾郡吾嬬村、1912(大正元)年9月1日からは吾嬬町の大字。もとは亀戸村字吾嬬耕地。1930(昭和5)年、吾嬬町大字東一~八丁目となる。

[近代]亀戸町 大字は村制時の12大字を継承したが、1915(大正4)年8月31日の大字名改称により、一~九丁目となる。1904(明治37)年、総武鉄道亀戸駅が開業、同年東武鉄道が乗り入れた。明治30年代に富士瓦斯紡績、日清紡績が設立されたのをはじめとして、大正・昭和初期には各種工場が竪川や中川沿岸に新設された。亀戸天神裏には1905(明治38)年頃から三業地が開け、「亀戸花街」といわれた。1932(昭和7)年10月1日、東京府東京市城東区亀戸町一~九丁目となる。1943(昭和18)年7月1日、東京都城東区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都江東区に所属。1968(昭和43)年8月1日に一~八丁目が、同年12月1日には九丁目が住居表示を実施し、現行の亀戸一~九丁目となる。


※Wikipediaでは亀戸町の大字撤廃について、「江東区の町名」は1915(大正4)年としているが、同じく「亀戸町」は1925(大正14)年11月10日としている。

撮影場所:本所亀戸町

撮影地:江東区亀戸三丁目6番1号(亀戸天神社)

天神町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。