【本所①021】本所松代町

町番号:本所①021

町名:本所松代町 一~三丁目

読み方:ほんじょまつしろちょう Honjo-Matsushirochō

区分:町丁

起立:1880(明治13)年

廃止:1930(昭和5)年

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本所」

現町名:墨田区江東橋四丁目

概要:武蔵国葛飾郡西葛西領のうち。前身は深川北松代町一~三丁目。深川町の小名木川北岸にあった町屋が明暦年間(1655~1657年)に収公され、竪川北岸に代地を与えられた。元地が嘗て信濃松代藩真田氏抱屋敷であったことから、竪川北岸に移転した際、対岸の深川南松代町に対して深川北松代町と命名。1713(正徳3)年、町奉行代官両支配となる(備考)。化政期(1804~1830年)の家数291軒(町方書上)。横十間川の西に一~三丁目、東に四丁目があり、竪川に架かる四之橋際には毎朝前栽物市場が立った(備考)。

前身の深川北松代町一~四丁目として、慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、深川北松代町裏町を併合。同年の戸数465・人口は未詳(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1880(明治13)年、東京府本所区に編入となり、本所松代町一~四丁目となる。1889(明治22)年5月1日、一~三丁目は東京府東京市本所区に所属となるが、横十間川東側の四丁目は東京府南葛飾郡亀戸村大字松代町四丁目となる。1901(明治34)年3月、東京府南葛飾郡深川本村飛地字松代町裏耕地を合併。

1930(昭和5)年、帝都復興計画の一環により、江東橋四丁目に編入となり消滅。

以下に横十間川の東に存在した本所松代町四丁目についても触れておく。

隅田川本流から分流していた古隅田川(請地古川)は首都高速6号向島線の向島出口辺りから南東に流れ、墨堤通りを越え、鳩の街通り商店街の西、京成・東武の線路敷きを潜り、なだらかなカーヴを描いて墨田区立押上公園辺りから十間橋のやや西で北十間川に合流していた(現在は全川暗渠)。古隅田川は単なる河川ではない。よくいわれる「現・隅田川は武蔵国と下総国の国境だった」というのは誤解で、古隅田川が嘗ての国境だった。それは近代においても変わらず、川が暗渠になろうとも本所区と向島区の区境として存在し、現在両区が墨田区のうちとなろうとも、向島と東向島の町境として存在している。

古隅田川は北十間川との合流後、真南に流れて東京湾に注いでいた。それが現在の横十間川である。この川の東西両岸の人々は江戸期から15区発足暫くの間は何の意識もなく共存していたが、1889(明治22)年5月1日の市町村制施行の際、武蔵国と下総国の旧国境が東京市と南葛飾郡の境と定められてしまった。つまり、横十間川の東側に位置していた本所亀戸町本所松代町四丁目本所瓦町本所五ノ橋町は南葛飾郡に追い出されてしまったのだ。

なお、江東区内にある亀戸天神社は、江東区亀戸ではなく、本所東南部の総鎮守である(亀戸の鎮守は隣の香取神社)。祭礼は当然ながら区の別を関係なしに亀戸天神の氏子によって行われている。現在は江東区亀戸一丁目の住民となった元本所地域の氏子たち(亀戸一丁目天神講)も一緒である。そのため、江東橋町会連合渡御では、わざわざ一度横十間川を東に越えた旅所橋の橋詰まで御神輿を移動させてから渡御を開始する。南葛飾郡に追い出されてしまった旧四丁目を忘れていないのだ。

撮影場所:本所松代町一丁目

撮影地:墨田区江東橋四丁目9番3号(SAKURAHOTEL)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。