【神田①095】神田竪大工町
町番号:神田①095
町名:神田竪大工町
読み方:かんだたてだいくちょう Kanda-Tate-Daikuchō
区分:町丁
起立:元禄年間(1688~1704年)以後
廃止:1933(昭和8)年
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「神田」
現町名:千代田区内神田三丁目13、17・18、22・23番、鍛冶町一丁目
概要:筋違橋御門内、神田多町南側の南北に細長い町であった(切絵図)。寛永江戸図では「大く丁」とあるが、竪・横の2ヶ町に分かれるのは元禄年間(1688~1704年)後かと思われる。国役を課せられた町で、のち役銀納付に変わった。役銀は作事小細工方へ26両3分、牢屋へ1両2分が納められた(諸色調類集・正宝事録)。町内の板新道菊寿稲荷社の辺りに、江戸でただ1軒の纒屋があった。主人を「石田次郎兵衛」といい、1730(享保15)年、町奉行大岡忠相から町火消の纒を一手に製作することを命じられた。当時纒1本、金1両2・3分で、店は明治期まで続いた(大江戸志・画報)。また「姥が井」という名井があった(砂子)。落語「子別れ」の大工の熊五郎、「三方一両損」の大工の吉五郎が住んでいるのが当町。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数150・人口587(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。
1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、多町一丁目、鍛冶町二丁目のそれぞれに編入となり消滅。
撮影場所:神田竪大工町
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