【神田①001】神田鍛冶町
町番号:神田①001
町名:神田鍛冶町
読み方:かんだかじちょう Kanda-Kajichō
区分:町丁
起立:1603(慶長8)年
廃止:存続
冠称:一・二丁目は1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年と1974(昭和49)年1月1日以降を除き「神田」。三丁目は1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「神田」
現町名:千代田区鍛冶町二・三丁目、内神田三丁目
概要:1603(慶長8)年の町割の時に起立された町で、町名は幕府鍛冶方棟梁高井伊織の拝領地だったことに因む(府志料・東京地理志料)。高井家は関八州の鍛冶頭を務め、その配下にある数多くの鍛冶職人たちもこの地に集まってきて住むようになった。江戸期に刊行され、大名や旗本の氏名・系図・家紋・御用達町人の氏名等が記された『武鑑』には、町内の住人として、文化年間(1804~1818年)だけでも、高井家をはじめ、金属加工を生業とする職人頭の名前が多く記録されており、他にも鍛冶に関連した仕事をする御用職人が多かったようだ。1824(文政7)年の『江戸買物独案内』には、刃物や釘等を扱う卸売業者がいたことも記されている。
一・二丁目があり、一丁目の東裏を1839(天保10)年まであった頬焼地蔵堂に因んで「薬師新道」、二丁目の東裏を木履製造者がいたため「下駄新道」と俗称した(江戸名所)。『江戸砂子』の著者菊岡沾涼が居住。また『紫の一本』によれば、天和年中(1681~1683年)、この地を掘ったところ、土製の恵比須が出土したため、掘った井戸を「恵比須の井」と名付けたという。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年に神田鍋町西横町の一部を合併し一・二丁目を廃止。1872(明治5)年の戸数318・人口1,427(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、千代田町、西今川町、西福田町、塗師町、新石町、竪大工町、南乗物町、上白壁町、下白壁町、黒門町を合併し、一~三丁目に改編。1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。
住居表示の実施により、1966(昭和41)年4月1日に三丁目の一部は現行の内神田三丁目に、1974(昭和49)年1月1日には一・二丁目が現行の鍛冶町一・二丁目にそれぞれ編入となる。残余の三丁目の一部は住居表示未実施のまま現在に至り(三丁目のみ「神田」の冠称が付いたまま)、1、9、11番地は内神田三丁目に編入。
撮影場所:鍛冶町二丁目
撮影地:千代田区内神田三丁目20番7号(サンクス神田駅北口店)
002神田鍋町→
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