【神田①096】神田多町
町番号:神田①096
町名:神田多町 一・二丁目
読み方:かんだたちょう Kanda-Tachō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:存続
冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「神田」
現町名:千代田区神田多町二丁目
概要:一・二丁目があった。慶長年間(1596~1615年)頃、名主の河津五郎大夫が野菜市を開き(府志料)、連雀町、永富町とともに「青物三か町」を形成した。古くは「メッタ町」とも(寛永江戸図・正保武鑑)「かつた町」(江戸切繪圖 : 俚俗 : 内神田・鍛冶町・柳原迄)ともいった。町名は慶長年間(1596~1615年)以前は田畑だった所で、埋め立ててはじめは「田町」(延宝江戸図)と書いていたが、青物市場の繁栄と町の賑わいとともにのち「多町」に改めた。「メッタ町」は「埋田町」の転訛であろうという(東京地理志料)。なお、「田町」としての起立は1606(慶長11)年。
天和年間(1681~1684年)、繻子鬢という繻子か羽二重の投頭巾を被った唄比丘尼がいたという(武江年表)。
一丁目(現・多町二丁目)には青物市場(青物三か町のうちの1つ)があり、寛延年間(1748~1751年)からは毎日市が立った(惣鹿子)。なお、明暦の大火(1657(明暦3)年)後に大きく発展し、江戸幕府御用市場となっていた。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数363・人口1,402(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。
1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、竪大工町、新石町、新銀町、駿河台紅梅河岸(真偽不明)を合併し一丁目とし、二丁目の一部を須田町一丁目に編入。1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。
1966(昭和41)年4月1日、住居表示の実施により、一丁目は現行の内神田三丁目に編入され、二丁目だけが残る(旧一丁目と旧二丁目が合併したのが現・二丁目)。
撮影場所:神田多町二丁目
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