【下谷①013】下谷車坂町

町番号:下谷①013

町名:下谷車坂町

読み方:したやくるまざかちょう Shitaya-Kurumazakachō

区分:町丁

起立:1869(明治2)年

廃止:1965(昭和40)年7月31日

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「下谷」

現町名:台東区東上野二・三丁目、上野七丁目

概要:1626(寛永3)年、下谷村の下谷坂本町通り東側の上野台麓に開かれた寛永寺門前町。はじめ新坂本下町・新坂本町と称した。その後、上野台上と坂本町通り(現在の上野七丁目付近の昭和通り)を結ぶ車坂に因んで、「車坂下町家」、「下谷車坂町」と呼ばれた。一説に寛永寺の車坂門に因むともいわれる。一~三丁目に分かれていた。年貢の負担はなく、上野御本坊用人足・上野山内掃除人足役を出した代官支配地であったが、1632(寛永9)年から寺社奉行支配地となる。1698(元禄11)年の屏風坂の拝領屋敷火災による代地の下谷六軒町と下谷二丁目飛地、下谷辻番屋敷、書院番組地が合併して起立。下谷上車坂町は寛永寺門前として町屋を形成したが、同年の勅額火事により中堂建設のため、全町域が収公された。代地は元誓願寺前(須田町)に2ヶ所、柳原佐久間町裏通りに1ヶ所、芝西久保に2ヶ所、下谷に4ヶ所、合わせて9ヶ所が給された。下谷の4ヶ所は寺町通・屏風坂下・浅草新寺町辺と長者町続で、それぞれ「寺町通車坂町」、「屏風坂下車坂町」、「浅草新寺町通車坂町」、「長者町続車坂町」と呼ばれた。こうして旧地の車坂町は寛永寺子院御用地となって消滅、名称は代地で継承された。下谷車坂町は、1698(元禄11)年の屏風坂の拝領屋敷火災による代地の下谷六軒町と下谷二丁目飛地、下谷辻番屋敷地、書院番組地が合併して起立した。

1869(明治2)年、寺町通車坂町屏風坂下車坂町が合併して下谷車坂町が起立。1872(明治5)年には下谷上車坂町下谷下車坂町も別れて起立。同年には、浅草新寺町通車坂町浅草清島町長者町続車坂町下谷坂町として起立。同年の戸数207・人口776(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。関東大震災後、上野駅前広場の整備で町域を縮小。市電停留所があり、電車唱歌に「走るも疾き車坂」と歌われ、停留所前には旅館が建ち並び、運送業者が多かった。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。

住居表示の実施により、1964(昭和39)年10月1日、南側が現行の東上野二丁目、北側が東上野三丁目に、1965(昭和40)年8月1日には上野駅前広場北側が現行の上野七丁目に編入となり消滅。

撮影場所:下谷車坂町

撮影地:台東区東上野三丁目16番3号(東宝ビル)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。