【下谷①014】下谷上車坂町

町番号:下谷①014

町名:下谷上車坂町

読み方:したやかみくるまざかまち Shitaya-Kami-Kurumazakamachi

区分:町丁

起立:1872(明治5)年

廃止:1965(昭和40)年7月31日

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「下谷」

現町名:台東区東上野四丁目、上野七丁目

概要:1626(寛永3)年、下谷村の下谷坂本町通り東側の上野台麓に開かれた寛永寺門前町。はじめ「新坂本下町」、「新坂本町」と称した。その後、上野台上と坂本町通り(現在の上野七丁目付近の昭和通り)を結ぶ車坂に因んで、「車坂下町家」、「下谷車坂町」と呼ばれた。一説に寛永寺の車坂門に因むともいわれる。一~三丁目に分かれていた。年貢の負担はなく、上野御本坊用人足、上野山内掃除人足役を出した代官支配地であったが、1632(寛永9)年から寺社奉行支配地となる。1698(元禄11)年の屏風坂の拝領屋敷火災による代地の下谷六軒町と下谷二丁目飛地、辻番屋敷、書院番組地が合併して起立。下谷上車坂町は寛永寺門前として町屋を形成したが、同年の勅額火事により中堂建設のため、全町域が収公された。代地は元誓願寺前(須田町)に2ヶ所、柳原佐久間町裏通りに1ヶ所、芝西久保に2ヶ所、下谷に4ヶ所、合わせて9ヶ所が給された。下谷の4ヶ所は寺町通・屏風坂下・浅草新寺町辺と長者町続で、それぞれ「寺町通車坂町」、「屏風坂下車坂町」、「浅草新寺町通車坂町」、「長者町続車坂町」と呼ばれた。こうして旧地の車坂町は寛永寺子院御用地となって消滅、名称は代地で継承された。

下谷上車坂町は、守永寺門前として町屋を形成したが、同年の勅額火事によリ収公され、寺町通り、屏風坂下、浅草新寺町辺に代地をもらい、それぞれ車坂町を付けて呼んだ。そのうち、寺町通車坂町が1872(明治5)年に下谷正法院門前、下谷高岩寺門前(町)、旧徒士組屋敷、武家屋敷地を合併して、下谷車坂町から分かれて起立した。同年の戸数142・人口553(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。町内は大半が商家で、小間物化粧品の桜香は著名。また下谷区役所、岩倉鉄道学校も町域内であった。関東大震災後の昭和通りの建設等で町域は次第に狭められた。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。

1965(昭和40)年8月1日、住居表示の実施により、昭和通りの東側が現行の東上野四丁目、西側が現行の上野七丁目に編入となり消滅。

撮影場所:下谷上車坂町

撮影地:台東区東上野四丁目3番1号(ファミリーマート東上野四丁目店)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。