【下谷①037】上野三橋町
町番号:下谷①037
町名:上野三橋町
読み方:うえのみはしちょう Ueno-Mihashichō
区分:町丁
起立:1869(明治2)年
廃止:1964(昭和39)年9月30日
冠称:「上野」
現町名:台東区上野四、六丁目
概要:この附近一帯は1625(寛永2)年の東叡山寛永寺創建により寛永寺門前地となった。このため、1698(元禄11)年、寛永寺中堂建立の際に上野仁王門前町ができ、1710(宝永7)年にはそれまで松原であったところを黒門前上野役人屋敷とした。さらに1711(宝永8)年には、寛永寺寺侍が寺社奉行を通して上野家来屋敷を拝領した。その他、北大門町飛地が造られる等、町域の変遷が複雑な地域であった。
重複するが、江戸期の沿革は「寛永二年東叡山門前地トナリ元禄十一年上野中堂建立ノ時里俗広小路三ツ橋東側ヘ市廛ヲ建テ上野仁王門前町ト唱ウ 同年延焼シテ上地トナリ其蹟ヲ以テ松原ト為ス 宝永七年ヨリ両側トモ漸々町屋敷トナリ上野北大門町同仁王門前上野家来屋敷同役人屋敷等アリ」とある(府志料)。
1869(明治2)年、上野仁王門前(町)、仁王門前上野家来屋敷の御成道東側部分、上野北大門町飛地、上野役人屋敷を合併して起立。町名は徳川歴代将軍が上野の祖廟を参詣する際、通った御成道(下谷広小路、上野広小路、現・中央通り)の忍川に3つ並んだ橋が架かっていたが、その名による。また、将軍が寛永寺墓参の折に渡る橋なので「御橋」といい、それが「三橋」に転訛したとする説もある。忍川は昭和初年に暗渠となり、三橋も姿を消してしまった。1872(明治5)年の戸数59・人口336(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。
1964(昭和39)年10月1日、住居表示の実施により、大部分が上野四丁目に、国電高架下の部分が上野六丁目に編入となり消滅。現在のABAB赤札堂の近辺。
撮影場所:上野三橋町
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