【下谷①052】谷中町
町番号:下谷①052
町名:谷中町
読み方:やなかまち Yanakamachi
区分:町丁
起立:元禄年間(1688~1703年)以前
廃止:存続 「谷中」として
冠称:なし
現町名:台東区谷中六・七丁目
概要:『備考』に「往古谷中村有之候処、年代不相知追々町場に相成候分、則谷中町と唱候旨申伝候」とある。また『府志料』に「元禄以後町地となり市廛を開き谷中町と唱う」とあるが、正確な成立年代は不詳。町名の由来は谷中村から独立して町屋を形成した年代が最も古い町であったことから「谷中町」と称したという。元禄年間(1688~1704年)から寛永寺中堂領となり、目代支配下にあったが、1745(延享2)年に町奉行支配となる。1828(文政11)年の家数89軒(町方書上)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。明治初年、大雄寺、妙雲寺、多宝院を併合。1872(明治5)年の戸数91・人口305(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。1879(明治12)年、谷中惣持院町を併合。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。
1967(昭和42)年1月1日、住居表示の実施により、谷中坂町の一部、谷中上三崎北町の一部が谷中一丁目に、谷中真島町の一部が谷中二丁目に、谷中初音町四丁目の一部、谷中三崎町の一部が谷中三丁目に、谷中坂町の一部、谷中真島町の一部、谷中三崎町の一部、谷中上三崎北町の一部が谷中四丁目に、谷中初音町一丁目の一部、谷中初音町三丁目の一部、谷中三崎町の一部、谷中上三崎南町の全部が谷中五丁目に、谷中初音町一丁目の一部、谷中茶屋町の一部、谷中上三崎北町の一部、谷中町の一部が谷中六丁目に、谷中初音町二丁目の全部、谷中初音町三丁目の一部、谷中茶屋町の一部、谷中町の一部、谷中天王寺町の一部が谷中七丁目に編入となる。
なお、そもそもの「谷中」について以下に詳述する。
「屋中」とも書く。『江戸往古図説』によると、地名の由来は、上野台と本郷台の谷間であったことからとされ、谷中の地名由来は下谷に対しての名称であるとされている。しかし現在、「谷中」と呼ぶ地域の大部分は上野台上である。一般的に谷中の地名の発祥は谷間であったが、次第に台地上もその名で呼ぶようになったといわれている。
地内の長耀山尊重院感応寺(後の天王寺)は、『谷中寺社書上』によれば、谷中村の関小次郎長耀という武士宅に日蓮が寄宿したのに始まり、長耀は後に「道灌坊」と号し、谷中台続きの道灌山に住んだと伝える(江戸名所、台東区史)。
「屋中」とは、戦国期に見える地名。『役帳』には小田原北条氏の家臣御馬廻衆一手遠山弥九郎の配当分として「卅九貫文 江戸 屋中」と見える。
「谷中村」とは、江戸期~1891(明治24)年の村名。一説には江戸時代以前からこの地一帯の広い範囲を「谷中村」と称していたとも。豊島郡峡田領のうち。はじめ幕府領。1625(寛永2)年の東叡山寛永寺の創建に伴い、子院が建立された。1657(明暦3)年の大火後には、江戸の中心部にあった寺院が谷中に移された。寺院の建築に伴い、谷中に町屋も形成されていった。当町はその町屋の1つ。元禄年間(1688~1703年)より東叡山中堂領。
『田園簿』の村高は田146石余・畑77石余、計224石余。その後、元禄年間(1688~1703年)までに谷中本村が分村し、『元禄郷帳』の村高は139石余。『天保郷帳』では154石余。慶長年間(1596~1615年)頃から江戸中期にかけて、村内には多くが進み、『備考』には谷中町等5町、16門前をあげている。村内に起立された寺院は、最終的には村域北東の天王寺をはじめ60余か寺を数え、『新編武蔵』は町屋と寺地を除く部分を「谷中町在方分」としている。在方分は化政期(1804~1830年)の家数11軒、小名に矢田、鶯谷があり、「鶯谷」の名は、元禄年間(1688~1703年)、日光御門主がこの地に鶯を放ったことに由来するという。
1868(明治元)年、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数76、うち士族2・僧侶38・平民36・人口167(府志料)。1878(明治11)年11月2日、北豊島郡に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に編入となり、1871(明治24)年には一部が谷中上三崎北町、谷中上三崎南町、谷中坂町、谷中初音町、谷中三崎町の各一部、残余が谷中天王寺町となる。
撮影場所:谷中町
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