【南葛飾】深川南松代町

町名:深川南松代町

読み方:ふかがわみなみまつしろちょう Fukagawa-Minami-Matsushirochō

区分:町丁

起立:寛文年間(1661~1673年)

廃止:1915(大正4)年8月30日

冠称:「深川」

後身:深川町(後の深川本村)

現町名:江東区大島二丁目

概要:葛飾郡西葛西領深川町分郷六間堀のうち。寛文年間(1661~1672年)に百姓町屋が許可され、1713(正徳3)年に町奉行・代官両支配となった。はじめは一~四丁目があった。町名は嘗て信濃松代藩真田氏抱屋敷があったことによる(備考)。1768(明和5)年・1790(寛政2)年の火災により一~三丁目は焼失、人足寄場付火除明地となった(備考)。その後、代地を与えられ後の深川常盤町の地へ移転。無事だった四丁目のみそのまま残り、「深川南松代町」を名乗り続けた。化政期(1804~1830年)の家数45軒(町方書上)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1871(明治4)年、深川町に編入となり、「深川本村字南松」と改称。1889(明治22)年5月1日、東京府南葛飾郡大島村に編入され、「大字深川本村字南松」となる。1900(明治33)年7月19日、大島村が町制施行する。東京府南葛飾郡大島町大字深川本村字南松となる。

1915(大正4)年8月31日、大島町再編により、それまでの大字を廃し、大字一~八丁目となる。その際、小字は全て撤廃され消滅。当域は大字二丁目のうちとなる。現行の大島二丁目のうちで竪川沿いの地。



■深川南・北松代町の謎

まず元になっている「深川松代町」とは、はじめ小名木川北岸の高橋辺りにあった町で、町名は信濃松代藩真田氏抱屋敷付近にあったことに因む。

深川北松代町…深川松代町一~四丁目が公収されたため、明暦年間(1655~1657年)に竪川北岸四ツ目の旧・本所清水町のあった土地を代地とされ移転し(本所清水町は元は谷中の清水坂にあった町屋だが、1661(寛文元)年に東照宮の火除地となり、1662(寛文2)年に後に本所松代町となる代地へ移転したきた。しかし、1684(貞享元)年に本所経営中絶により退去した。その後、1693(元禄6)年12月に本所長崎町の北に下付された代地に復帰した)、「深川北松代町」と名乗った。町名の由来は既に南岸に存在していた深川南松代町があったのに対した、とのこと。深川北松代町とは、現在の墨田区江東橋四丁目の大部分と江東区亀戸一丁目の竪川沿い、間に南本所瓦町と亀戸村の飛び地を挟んでの3箇所である。

深川南松代町…深川松代町一~四丁目が竪川南岸四ツ目に移転し、「深川南松代町」を名乗った。これが寛文年間(1661~1672年)とのこと。これは現在の江東区毛利二丁目の北部、大島二丁目の北部である。

さらっと読み流せない。北岸に移転してきた深川松代町が「北」と付けた理由は、既に南岸に深川南松代町があったからということだが、北が移転してきたのが明暦年間(1655~1657年)で、南が移転してきたのは寛文年間(1661~1672年)なので、北の方が先ではないか。

さらに竪川より南にある小名木川の近辺にあった深川松代町が竪川近辺に移転させられたのに移転早々「南」を付すはずはない。竪川対面にも移転してくることが予定されていて、先に「南」を付けておいたというのであれば話は解るが。

『本所区史』にも「当時は南岸に南松代町があったから本所側を北松代町と称した」とある。ということは、南は先に移転はしたが町屋として機能するのが遅かったということか…?そんなことがあるのだろうか。

撮影場所:深川南松代町

撮影地:江東区大島二丁目8番15号(BIG TREE -Handmade Jewelry-)

亀戸元町 深川上大島町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。