【深川①050】深川木場町

町番号:深川①050

町名:深川木場町

読み方:ふかがわきばちょう Fukagawa-Kibachō

区分:町丁

起立:1703(元禄16)年

廃止:存続 「木場」として

冠称:1911(明治44)年5月1日から1947(昭和22)年3月14日までを除く期間と1967(昭和42)年6月30日まで「深川」

現町名:江東区木場四・五丁目

概要:築地町24ヶ町の1つ。はじめ、里俗で単に「木場」と称した。また、「下木場」ともいった。1701(元禄14)年、毛利の木場を幕府専用にするため、現在の木場の辺りが材木問屋15人に払い下げられた。材木問屋等は土手を築き、堀を巡らし、橋を架け、10ヶ所に貯木場を設けた(備考)。2年後の1703(元禄16)年に「深川木場町」を唱えた。本来「木場」は「材木置き場」、「貯木場」、「切り出し場」を略した俗称である。木場は日本各地にあるが、各地の地名は海若しくは川沿いに面しており、これは木材を海路で運んだり、上流で切り出した木をそのまま川に流すためである。1713(正徳3)年、町奉行支配となる(備考)。

『文久板本所深川絵図』には、深川富岡八幡の東方に深川入船町、深川島田町があり、それより木置場と記して縦横に多くの堀割を記載、『府志料』には「木場堀木場町の中に縦二五条、横二三条あり、東は横川、南は平野川に通じて渠を成すものなり。堀割年代詳ならず、或は木場問屋の私に穿ちしものならん」とある。化政期(1804~1830年)の家数45軒(町方書上)。

材木置場は初め神田にあったが、防火策で深川佐賀町辺りに移され、やがて現・江東区毛利(現・東京都立猿江恩賜公園)から木場へ移された。この木場は隅田川の河口に設けられ、江戸時代初期から江戸への建設資材の集積場として発展した。特に江戸では明暦の大火等の大火災がしばしば起こり、その度に紀州等の地方から大量の木材が木場を目指して運び込まれた。明治維新以降になると、木場の沖合いのゴミ等による埋め立てが進み、木場の目の前から海が姿を消した。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数47・人口173(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府深川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市深川区に所属。

1931(昭和6)年、帝都復興計画の一環により、従来の木場町が三・四丁目となり、入船町島田町が一丁目、鶴歩町が二丁目、茂森町扇町が四丁目となった。1943(昭和18)年7月1日、東京都深川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都江東区に所属。

1967(昭和42)年7月1日、住居表示の実施により、深川木場一~四丁目は木場二~五丁目となり、深川平久町一・二丁目が木場一、六丁目となる。

江戸期以来の木場堀は、近代の新木場(東京湾岸埋立地)造成に伴い、多くが埋め立てられた。材木業者は移転。東京都は1972(昭和47)年、跡地に木場地区再開発構想を立てて、地震・火災等の非常避難広場「昭和記念木場公園(仮称)」の建設を予定。その対象区域は江東区平野、木場、三好、千石、東陽各町の一部を含む地域で、公園部分24ha、周囲の緑地6haとなる。1975(昭和50)年、昭和天皇在位50年の記念公園として位置付けられることが決まる。1992(平成4)年6月1日、東京都立木場公園が開園となった。

撮影場所:深川木場町

撮影地:江東区木場五丁目8番(グレイスコート木場パークサイド中庭)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。