【南豊島】千駄ヶ谷大番町

町名:千駄ヶ谷大番町

読み方:せんだがやおおばんちょう Sendagaya-Ōbanchō

区分:町丁→大字

起立:江戸期

廃止:1891(明治24)年3月17日

冠称:「千駄ヶ谷」

後身:四谷大番町

現町名:新宿区大京町、信濃町

概要:古くは豊島郡千駄谷村の一部であったが、1618(元和4)年に西福寺領となって以来町屋が開け、四谷大番町(俗称「表大番町」と俗称「裏大番町」を併せた俗称。正式な起立は1872(明治5)年)と地続きであったので「千駄ヶ谷大番町」と称した。1746(延享3)年、寺社奉行支配から町奉行支配に移管(備考)。1828(文政11)年の家数25軒(町方書上)。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。明治初年、千駄ヶ谷八幡町の一部を併合。1872(明治5)年の戸数37・人口137(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、千駄ヶ谷一~三丁目、千駄ヶ谷西信濃町千駄ヶ谷甲賀町千駄ヶ谷仲町一・二丁目とともに東京府四谷区に編入。しかし1879(明治12)年9月27日、これらは東京府四谷区から東京府南豊島郡千駄ヶ谷村へ移管されてしまい、当町も千駄ヶ谷村大字千駄ヶ谷字大番町となる。

さらに1889(明治22)年5月1日、町村制施行に伴い、四谷区と南豊島郡の境界を再度変更。千駄ヶ谷村の一部となった字西信濃町、字甲賀町、字池尻、字霞岳、字川向、字火薬庫前とともに再び四谷区(東京府東京市)へ編入される。1891(明治24)年3月18日、四谷大番町に併合され消滅。

Wikipedia での現在地は「新宿区大京町」となっているが、東側の慶應義塾大学医学部の敷地の一部も当町の町域である。

撮影場所:千駄ヶ谷大番町

撮影地:新宿区大京町27番地(民家)

六辻町 千駄ヶ谷西信濃町


江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。