【日本橋 小路】両国広小路

小路名:両国広小路

読み方:りょうごくひろこうじ Ryōgoku-hirokōji

区分:小路

成立:江戸期

廃止:不明

現町名:中央区東日本橋二丁目

概要:『日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖』に「○両国広小路」と、『江戸切繪圖 : 俚俗 : 人形町・浜町・両国辺』には「●両国西広小路」とある。隅田川両国橋の西詰に設けられた火除地。日本橋北部、横山町三丁目、米沢町一~三丁目、元柳河岸吉川町新柳町の間、両国橋西詰の火除地一帯を称した。火災による橋への延焼を防ぐため、常設の建物の建設は禁止されていたが、見世物小屋や飲食物を商う者で賑わった。 なお、はじめ「両国」の名は西側のみのものであったが、両国橋の東側も同様に栄え始め、そちらは「向両国」、「東両国」と呼ばれるようになった。 

「両国橋」とは、武蔵国と下総国を結ぶ橋であるためにそう名付けられたとされているが、橋の向こうの本所は一度も下総国に属したことはない。何故このような紛らわしい名前を付けてしまったのか甚だ疑問である。  両国橋ははじめ、「大橋」と呼ばれており、「両国橋」とは俗称であったが、1693(元禄6)年に1つ南に新大橋が架橋されて正式名称とされた。

江戸期、国境はたしかに東にずれたが、それは現・隅田川から現・江戸川にずれたのではなく、古隅田川(請地古川~横十間川)から江戸川にずれたのである。なお、その境界線は東京市市制施行時に東京市内と郡部に分けるために復活した。 両国橋の橋名とともに、「武蔵国が東に拡張したこと」と「江戸の範囲が東に拡張したこと」の混同も混乱を招く要因の1つであろう。 

本所と深川は近世に武蔵国豊島郡から武蔵国葛飾郡に編入されたのであって、下総国から武蔵国に編入されたのではない。下総国から武蔵国に編入されたのは横十間川から東の亀戸以東である。

なお、昔の両国橋は現在より南に架けられていたため、橋詰の広小路があった場所は現在の京葉道路ではない。

撮影場所:両国広小路

撮影地:中央区東日本橋二丁目17番7号(クリエイトビル)

新大橋広小路 両国西広小路

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。