【深川②】深川大島町
そもそもの「大島」について以下に詳述する。
「大島、大島村、大島町」は、葛西郡西葛西領のうち。幕府領。江戸初期は海岸の低湿地で、『正保江戸図』には記されていない。のち開発され、『元禄郷帳』には265石余。1659(万治2)年、村内の一部が霊巌寺領となり、同領には1665(寛文5)年より朱印地となった。
読み方は「おおじま」と濁る。1847(弘化4)年改版の『江戸町鑑』に「大ジマ」と敢えて濁音で書かれている。これは深川猟師町の深川大島町(おおしま)と混同しないためといわれている。
小名木川沿いに町場化が進み、1657(明暦3)年、深川上大島町、深川下大島町が成立。『新編武蔵』は両町を小名として記す。他に小名として「上村」、「下村」があった。検地は1697(元禄10)年等。化政期(1804~1830年)の家数は32軒(新編武蔵)。以後も新田が開発され、『天保郷帳』には271石余とあり、幕末まで変化はない(『旧高旧領』は霊巌寺領50石を含む)。鎮守は稲荷社と愛宕社。新義真言宗智山派愛宕山勝智院があった。五百羅漢像を安置する黄檗宗天恩山五百大阿羅漢寺は江戸の名所として有名であった。江戸初期のまだ人家の少ない頃、近江国栗太郡の鋳物師六右衛門が当村に移住。1717(享保2)年の御成りのとき、御用釜の焚き出しを仰せつけられて以来、御成り先の御用釜を差し上げた。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。明治維新後、霊巌寺領を合併。村は3ヶ所に分かれ、「上大島村」、「釜屋裏」、「下大島村」等と俗称された。1872(明治5)年の戸数80・人口392(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府南葛飾郡に所属。1887(明治20)年、横十間川沿い(現在の江東区立釜屋堀公園付近)に高峰譲吉、渋沢栄一等により、東京人造肥料会社(後の大日本人造肥料会社)が設立された。小名木川、横十間川沿いに工場が集中し、特に化学工場が多かった(江東区史)。1889(明治22)年5月1日、大島村、深川本村、猿江村、小名木村、深川出村、平方村、南本所出村、北本所出村、中之郷出村、深川区深川下大島町、同区深川上大島町の一部或いは全部と小梅村、須崎村、亀戸村3ヶ村の飛地を合併し、東京府南葛飾郡大島村が成立。「大島」の各地は同村の大字となった。現行の大島一~六丁目辺り。
1891(明治24)年、大島村字曽根を深川猿江裏町に編入。
1900(明治33)年7月19日、大島村が町制施行して大島町となると、大島は大島町の大字となる。1915(大正4)年8月31日、町内の15の大字名が整理統合され、大字一~八丁目となる(小字は廃止される)(※『角川日本地名大辞典』の大島の項には「一~六丁目となる」とあるが間違い)。
1932(昭和7)年10月1日、東京府東京市城東区に所属。1913(大正2)年、『アララギ』を主宰した歌人伊藤左千夫が本所から当町の六丁目に移転。一生をここで過ごした。1943(昭和18)年7月1日、東京都城東区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都江東区に所属。 昭和20年代には多くの都営住宅が建設され、工場と住宅が混在する町となった。
1965(昭和40)年1月1日、住居表示の実施により、現行の大島一~九丁目となる。
撮影場所:深川大島町
0コメント