【神田①080】連雀町
町番号:神田①080
町名:連雀町
読み方:れんじゃくちょう Renjakuchō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1933(昭和8)年
冠称:なし
現町名:千代田区神田須田町一丁目3、9~13、15、17、19、21、23、25番地、神田淡路町二丁目6、8、10、12番地
概要:天正年間(1573~1592年)頃には既に町として成立していたという(東京地理志料)。慶長年間(1596~1615)、香具師・行商人等が多く住んでいた。町名は行商人の背負う連尺に因み、のち「連雀」と改める。明暦の大火後、火除地として召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられた。その際、連尺を商う25世帯は現在の三鷹市上連雀、下連雀に移転させられたが、僅かな地域が残った。
神田多町、永富町とともに「青物三か町」とも呼ばれ、青物市場の一部となり、幕府御用も勤めた。明暦の大火以前は、町年寄喜多村又四郎が住む「連雀庵」があった。喜多村氏は香具師の鑑札を発行し、役銭を取っていた。
1856(安政3)年の地図には、この界隈に土井能登守、青山下野守等の上屋敷があった。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、1683(天和3)年まで戸田采女正の屋敷だった酒井徳之助等の武家地を合併。1872(明治5)年の戸数83・人口433(府志料)。当町から遷座された出世稲荷神社は、土井家屋敷内にあった延寿稲荷神社とともに町内の鎮守となった。
1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。
1912(明治45)年、甲武鉄道万世橋駅が、現在の交通博物館の地(江戸期の八ツ小路)に開業。駅前広場には明治の軍人広瀬中佐の銅像が聳え、多くの市電の発着地として、東京でも屈指の交通の要衝として栄える。また、寄席の白梅亭をはじめ、旭楼等、20軒もの旅館が建ち並び、樋口一葉が『別れ霜』において「神田連雀町とかや、友囀りの喧しきならで客足しげき……」と、その賑わいを記している。
1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、須田町一丁目、淡路町二丁目に編入となり消滅。現行の神田須田町一丁目、神田淡路町二丁目のうち。
撮影場所:連雀町
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