【小石川①022】小石川餌差町
町番号:小石川①022
町名:小石川餌差町
読み方:こいしかわえさしちょう Koishikawa-Esashichō
区分:俗称、町丁
起立:江戸期
廃止:1693(元禄6)年
復活:1869(明治2)年
廃止:1940(昭和15)年
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「小石川」
現町名:文京区小石川一・二丁目
概要:江戸期、小石川中富坂町、小石川下富坂町の一部に起立。町名は江戸期の小石川富坂各町の旧町名による。小石川の上・中・下の小石川富坂町の三ヶ町は嘗て小石川村の百姓地で、慶長年間(1596~1615年)に加藤伊織組餌差衆59人の拝領地となってのち町屋が作られた。町屋が作られた当初、三ヶ町はそれぞれ上・中・下の小石川餌差町といった。1693(元禄6)年に町方支配になった際に、古くは「鳶坂」ともいった。後に富坂に因み、上・中・下の小石川富坂町と改められた。『延宝江戸方角安見図』には「ゑさし町」とあり、1716(享保元)年の『分道江戸大絵図』には「とひさか町」とある。餌差衆59人のうち10人の拝領地は後に水戸藩上屋敷用地となり、この替え地として下されたのが小石川富坂新町(後の小石川金富町)である。1725(享保10)年には江戸岡鳥問屋8名のうち、利右衛門、三郎兵衛、清兵衛等5名が当地の者であった。
1869(明治2)年、小石川下富坂町(江戸期は西隣の小石川中富坂町にも及ぶ)のうち、里俗に「西側分」と称した地(旧餌差衆拝領地)が改称して「小石川餌差町」となった(江戸期の地図を見ると小石川中富坂町の町域に「俚俗にヱサシ町ト云」とあり、後に当町町域は武家地)。1872(明治5)年8月に近傍の土地や北接する善雄寺境内を編入した。西は本郷田町、南は小石川下富坂町等、東は小石川中富坂町、北は小石川初音町。同年の戸数112・人口419(府志料)。
1878(明治11)年11月2日、東京府小石川区に所属。町内に浄土宗龍頭山善雄寺、基督教会堂等があった。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市小石川区に所属。
1940(昭和15)年、富坂一丁目、春日町三丁目に編入となり消滅。
※『角川日本地名大辞典』には「現行の小石川1丁目のあたり」とあるが、二丁目もである。
撮影場所:小石川餌差町
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