【小石川①033】小石川久堅町
町番号:小石川①033
町名:小石川久堅町
読み方:こいしかわひさかたちょう Koishikawa-Hisakatachō
区分:町丁
起立:1869(明治2)年6月
廃止:1966(昭和41)年3月31日
冠称:1911(明治44)年4月30日まで「小石川」
現町名:文京区小石川三~五丁目
概要:古くは豊島郡小石川村の内で、元和年間(1615~1624年)以後町屋を開いた。「鳥追い」と呼ばれる門廻り(有戸籍の非人)の居住地で「江戸小屋」と呼ばれる非人小屋が伝通院の西寄りにあったともいわれる。その様子は永井荷風の随筆『傅通院』に書かれている。
1869(明治2)年6月、江戸期の小石川金杉水道町の一部、小石川戸崎町の一部、小石川橋戸町、小石川久保町、小石川宮下町飛地、小石川宗慶寺門前、小石川善仁寺門前、旗本屋敷跡等に、俚俗に「三百坂南町」、「御殿町」、「極楽水西町」と称していた所等を合併。町名は永久に栄えるようにという意(案内)。1872(明治5)年7月、常陸府中藩松平氏邸跡を合併(白山大通北町のうち、華族久松氏別邸址を併せ、ともある(文京区史))。同年の戸数189・人口557(府志料)。小石川台と本郷台に挟まれた谷間の地域で、文京区を代表する印刷業の町の1つ。
1878(明治11)年11月2日、東京府小石川区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市小石川区に所属。1891(明治24)年3月、小石川村の住吉の一部、鶴場の一部、極楽の一部と小石川竹早町の一部を合併、また小石川薬園跡地を含む北部大部分を起立の白山御殿町に割譲。1898(明治31)年、博進社印刷工場(「博文館印刷所」と改称後、1925(大正14)年、精美堂と合併し、共同印刷株式会社となる)が開設され、博文館の『太陽』の他、少年・少女雑誌の印刷を引き受けた。『蒲団』で知られる田山花袋は1903(明治36)年頃からここで地理書の編纂に従事。1926(大正15)年の共同印刷争議を採り上げた徳永直の『太陽のない街』はその題名で坂下に中小工場が並ぶ当町の描写を集約している。また、石川啄木は1911(明治44)年に当町に移転、1912(明治45)年に若山牧水等に看取られながら息を引き取った。町内には浄土宗中台山光円寺、浄土宗吉水山宗慶寺、曹洞宗梵音山慈照院等があり、宗慶寺には極楽井があった。1943(昭和18)年7月1日、東京都小石川区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。
住居表示の実施により、1964(昭和39)年8月1日に小石川三・四丁目に、残余は1966(昭和41)年4月1日に小石川五丁目に編入となり消滅。戦後造られた環状3号線の坂名は、ここに屋敷のあった松平播磨守(常陸府中・水戸家支藩)に因んで「播磨坂」と名付けられた。町の人の努力で育てられた桜並木は花の名所となり、毎年桜まつりが行われている。
撮影場所:小石川久堅町
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