【日本橋②】吉原町
町名:吉原町
読み方:よしわらちょう又はよしわらまち Yoshiwarachō or Yoshiwaramachi
区分:総称
起立:江戸期
廃止:1657(明暦3)年6月頃
冠称:不明
後身:富沢町、新和泉町、高砂町、住吉町、住吉町裏河岸、難波町、難波町裏河岸
現町名:中央区日本橋人形町二丁目6・7、25・26番、日本橋人形町三丁目8~13番、日本橋富沢町1~6番
概要:元吉原を俗にそう呼んだ。
江戸期の公許遊廓地。江戸幕府は1617(元和3)年に、それまで市中数ヶ所に散在していた遊女屋を集めて、葺屋町の東隣2町四方の地(現在の中央区日本橋人形町付近)に遊廓を造ることを許可した。葭の生い繁る湿地を埋め立てて遊廓を建設したので、はじめ「葭原」と称したが、のち縁起のよい「吉原」に改めたという。
翌1618(元和4)年11月の開業当時は、江戸町(のち江戸町一丁目)、けんぞうす町又はけんそう町(のち江戸町二丁目)、京町(のち京町一丁目)の3町のみであったが、数年後に京町二丁目(「新町」ともいう)と角町ができ、廓内にいわゆる「五丁町」が形成された(寛永江戸図)。
周囲に堀が巡らされ、北隣の長谷川町、富沢町側に入口があり、そこに大門があった。現在でも浪花町と人形町三丁目の間の通りを、俗に「大門通り」と称しているので、この付近に大門があったと思われる。大門を潜ってすぐ右手に、吉原町名主の庄司甚右衛門の屋敷があり、「仲之町」と呼ばれた。廓内の中央通りをさらに進めば、右側に江戸町一丁目と京町一丁目、左側には江戸町二丁目、角町、京町二丁目が並んでいた。『あづま物語』(寛永19年刊)によれば、当時吉原には太夫75・格子3・端女郎881、計987人の遊女がいたという。
やがて江戸の町の発展に伴い、吉原が市街地の中心部になったため、1656(明暦2)年に幕府は業者に対し、1万両余の移転料の支給、5割増の敷地の下付、1640(寛永17)年以来禁じていた夜業の許可等を条件に、郊外地への移転を命じた。1657(明暦3)年の明暦大火による類焼が移転に拍車をかけ、同年8月、浅草千束村(現在の台東区千束)への移転を完了した以後、その地を「新吉原」と呼び、移転前の地を「元吉原」と称するようになった。なお元吉原の跡地には新しい町屋が形成され、高砂町、住吉町、難波町、新和泉町等が成立した。
撮影場所:吉原町
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