【牛込②】市ヶ谷町

町名:市ヶ谷町

読み方:いちがやまち Ichigayamachi

区分:総称

起立:江戸期

廃止:1878(明治11)年11月1日

冠称:なし

後身:市ヶ谷七軒町市ヶ谷本村町市ヶ谷谷町市ヶ谷冨久町市ヶ谷八幡町市ヶ谷田町市ヶ谷佐内坂町市ヶ谷長延寺谷町市ヶ谷船河原町市ヶ谷柳町市ヶ谷甲良町市ヶ谷薬王寺前町

現町名:新宿区市谷本村町、住吉町、市谷台町、片町、市谷柳町、四谷本塩町、富久町、余丁町、市谷八幡町、市谷田町一~三丁目、市谷左内町、市谷長延寺町、市谷船河原町、市谷甲良町、市谷薬王寺町等

概要:「市谷」とも書く。地名の由来は、長延寺谷、別称「市ヶ谷」と称する大きな谷があったことによる(改撰江戸志、備考)とも、往古、市の立った地で「市買」と書いた(求涼雑記、新編武蔵)ともいう。また「一ノ谷」ともいったという。

1357(延文2)年12月22日の『足利基氏御教書』によれば、1312(正和元)年、鶴岡八幡宮に寄進された『武蔵国金曽木彦三郎・市谷孫四郎等跡』が、1357(延文2)年当時、江戸淡路守に押領されており、南北朝期には当地を名字に冠する土豪の存在が知られる(鶴岡八幡宮文書/神奈川県史)。

「市谷」とは戦国期に見える地名。地名としての初見は『役帳』で、小田原北条氏の家臣江戸衆の太田康資の寄子配当分のうちに「卅弐貫九百拾六文 江戸市ヶ谷斎藤分 中村二郎右衛門」と見える。1562(永禄5)年11月13日付『太田景資判物』には「市ヶ谷之内梶原三河」が見え、「雪谷戸」の替地として法恩寺に寄進されている(法恩寺旧蔵文書/武文)。その後、1587(天正15)年3月24日付の『北条家印判状写』によれば、1581(天正9)年に11年間の期限をもって太田下野守の私領市ヶ谷45貫文の地が、借銭方として遠山聟千世に与えられており(太田文書/武文)、また『左京亮全鑑(太田氏)宛行状』によれば、全鑑が「市谷分」を「大まき」とともに宮城中務丞政業に宛行っている(豊嶋宮城文書)。

「市ヶ谷村」とは、江戸初期の村名。幕府領。『田園簿』の村高は田15石余・畑28石余、計43石余。東は外堀に限り、南は四谷、西は大久保、北は牛込の地に接す。『新編武蔵』によれば、「寛文年中(1661~1673年)より百姓商店を建て町並を成し」とあり、『元禄郷帳』では「市ヶ谷町」となっている。

「市ヶ谷町」とは、江戸期~明治初期の町名。豊島郡野方領のうち。幕府領。『元禄郷帳』、『天保郷帳』、『旧高旧領』の石高はともに43石余。『新編武蔵』によれば、1713(正徳3)年に反別1町9反9畝21歩の地が町奉行支配に属し、市ヶ谷本村町市ヶ谷谷町市ヶ谷片町、市ヶ谷三軒屋敷、市ヶ谷柳町が成立、これらの各町は町奉行支配を受ける一方、年貢は幕府代官に納めた。また残余の地は化政期(1804~1830年)には尾張徳川家、田安家、小笠原氏等の抱屋敷となっており、また5反5畝27歩が見取場であった。その後、町数が増加、明治初期には市ヶ谷七軒町市ヶ谷本村町市ヶ谷谷町市ヶ谷富久町市ヶ谷八幡町市ヶ谷田町市ヶ谷佐内坂町市ヶ谷長延寺谷町市ヶ谷船河原町市ヶ谷柳町市ヶ谷甲良町市ヶ谷薬王寺前町が見える。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1878(明治11)年11月2日、郡区町村編制令により、牛込町と合併して成立となる東京府牛込区に所属となり消滅。旧町奉行支配下の各町は牛込区の各町となる。

撮影場所:市ヶ谷町(市ヶ谷長延寺谷町)

撮影地:新宿区市谷長延寺町8番地(新宿区立長延保育園)

牛込町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。