【牛込②】牛込町

町名:牛込町

読み方:うしごめまち Ushigomemachi

区分:総称

起立:江戸期

廃止:1885(明治18)年

冠称:なし

後身:牛込肴町牛込通寺町牛込末寺町牛込横寺町牛込御簞笥町

現町名:新宿区神楽坂五・六丁目、横寺町、簞笥町他

概要:地名の由来は、牛の牧に因むと伝え、『新編武蔵』に「駒込馬込など云うも皆牧ありし所とみゆ。込は和字にて多く集まる意なり、爰も牛の多く居りし所なれば名づけし」と見える。

「牛込郷」とは、南北朝期(1336~1392年)から見える郷名。荏原郡に属す。1340(暦応3)年8月23日付の足利義詮御教書に『荏原郡牛込郷關所分事』として江戸近江権守に預け置かれたのが初見(牛込文書/武文)。1444(文安元)年、『大般若経』464巻の巻首に「武州荏原郡牛込郷総社赤城大明神」とある(赤城神社旧蔵)。南北朝期(1336~1392年)以来、江戸氏一族牛込氏の支配するところとなった。戦国期に上野国大胡の大胡重行が牛込氏の家督を継ぎ、小田原北条氏の臣下となり、子勝行は1555(天文24)年から「牛込氏」を名乗る。『役帳』によれば、小田原北条氏の家臣、江戸衆の大胡が牛込64貫430文、恒岡弾正忠が牛込内富塚(現・新宿区戸塚)500文を知行。なお現・北区王子権現社領が牛込の地に3貫180文あった。小田原北条氏滅亡後、1590(天正18)年4月に豊臣秀吉の発した禁制には「武蔵国えはらの郡えとの内うしこめ七ヶ村」とあり(牛込文書)、牛込七ヶ村は、大久保、戸塚、高田、早稲田、中里、和田、戸山の各村とされる。

「牛込村」とは、江戸期~1885(明治18)年の村名。豊島郡野方領のうち。『田園簿』の村高は、田330石余・畑140石余、計471石余で旗本領305石余、幕府領165石余、他に寺領14石余。『元禄郷帳』では384石余、『旧高旧領』では25石余。『天保郷帳』では「牛込町 古者牛込村、金杉水道町」676石余とある。『備考』には「往古武州豊島郡野方領牛込村之内」として、牛込肴町牛込通寺町牛込末寺町牛込横寺町牛込御簞笥町等の各町を記す。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1878(明治11)年11月2日、郡区町村編制令により、大部分が市ヶ谷町と合併して成立となる東京府牛込区に所属となる。旧町奉行支配下の各町は牛込区の各町となる。

その後の牛込区域で同日東京府牛込区に編入されなかった部分はそれまでの東京府豊島郡域であり、同日、東京府南豊島郡となった。そのうちの早稲田村は1879(明治12)年に中里村の一部を、1885(明治18)年に牛込村の残余を合併して村域を拡張(新宿区町名誌)。この時点で牛込村(牛込町)は消滅した。

なお、区側は1880(明治13)年に小石川区から新小川町一~三丁目を編入。

その後、早稲田村は1889(明治22)年5月1日、町名を付与されないまま、東京府東京市牛込区に編入となり、その後の1891(明治24)年に現行の「早稲田鶴巻町」と改称。この時点でよく知られる牛込区の形がほぼ確定した。なお、『新編武蔵』では、村域を「今全く村と唱うる所は、早稲田下戸塚の間にて纔に残れり」とし、「耕種の地甚少し、依て民家なく関口、早稲田両村の民耕作す」とある。

撮影場所:牛込町(牛込肴町)

撮影地:新宿区神楽坂五丁目21番1号(神楽坂菓寮)

市ヶ谷町

江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。