【浅草②】浅草寺地中
町名:浅草寺地中
読み方:せんそうじじちゅう Sensōji-jichū
区分:総称
起立:江戸期
廃止:1877(明治10)年
冠称:なし
現町名:台東区浅草一~三丁目、花川戸一・二丁目他
概要:金剛山浅草寺の境内と境内支院の門前に開かれた町屋の総称。『町方書上』には「浅草寺地中三拾四ヶ院」が書き上げられており、総建家棟数は608棟。浅草寺支院は3地区に分かれ、1つは俗に「南谷」と称した風雷神門内参道両側に、1つは俗に「北谷」と称した随身内外北馬道町続きの両側に、1つは俗に「東谷」と称した随身内外外馬場の東側にあった(府志料、浅草寺境内古図)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。『府志料』によれば、北谷・東谷の町屋は、1872(明治5)年に上地となり、それぞれ「浅草吾妻町」、「浅草三社町一・二丁目」と命名されたが、後にともに町名を廃し、仮に「浅草寺地中上地町屋」と称す。一方、南谷の町屋は1872(明治5)年の寺地改革で「浅草宮戸町」と命名したが、後に「浅草寺境内」と定められ、仮に「浅草寺地中借地町屋」と称する。1872(明治5)年の戸数・人口は、北谷1,084戸・3,487人、東谷507戸・1,956人、南谷は547戸・2,117人。
浅草寺観音堂裏の「奥山」と称されていた地は、大道芸人等が集まり、江戸期以来庶民の行楽の地となっていたが、1872(明治5)年の上地、翌1873(明治6)年には奥山を含め、浅草寺境内観音堂周辺の地は浅草公園地となり、残る「南谷」、「北谷」、「東谷」と通称されていた地は、1877(明治10)年に浅草馬道町一~八丁目の各一部に編入となり消滅。
撮影場所:浅草寺地中(浅草南馬道町)
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