四ツ目通り以南

日高屋で生姜焼き定食を喰らって、さて再開。四ツ目通りを渡った。あとはずっと左右とも押上一丁目。だが、右は向島請地町で途中から向島押上町、左は南葛飾郡吾妻村大字請地字古川端。

今、「押上」というとスカイツリーの袂の向島押上町とかこの辺りをいうけど、本所にはもう1つ「押上」を名乗る「押上町」という町があった。それは北十間川の南縁。今の墨田区業平の辺りだ。そこは「本所」や「柳島」、「中之郷」の冠称が付かなかった。それは本所でも柳島でも中之郷でもなく、「押上村」であったことと、北十間川の南岸にあったから「向島」を冠称に付けなかったということであろう。

「押上」という地名の由来は、ここいら辺が宮古川(現・隅田川)やこの古隅田川(請地古川)の河口であったため、土や砂が堆積してできた地である、というのが定説だ。

なお「押上」は代地が多く、現・墨田区の他の場所にも現・江東区亀戸にも多くの「押上村」、その後の「字押上」が存在した。

「押上とか曳舟とか、水に関する地名のとこって地盤が弱いんでしょう?」ってか。東日本大震災のとき、思い出してみなよ。東東京によっぽど興味がないか、見下してるか…。液状化現象があった新木場辺りとごっちゃにしてるんだよなぁ。まぁ、地盤、強いとは言えないけどね、言えないけど、思い出してみてよ、東日本大震災のときの揺れ具合いと被害状況とかを。内陸部と全然変わんなかったでしょ?


新あづま通りの2本西の道。ここは川筋。このまま道なりに南下。ここから先は流路跡=国境のようだからこのまま進む。町名は左右とも押上一丁目。この押上っていう町は向島区が発足するまで南葛飾郡だった地域とも合併されちゃったから、町名で国境が判断できないんだよね。地元の人に訊くと、「お祭んとき、同じ町内でも氏神が違うんだよ。高木と飛木と、それに天祖神社とさ」とややっこしいらしい。でも結局は相互支援でどこの御神輿でも担ぐらしいけど。


さて、古隅田川(請地古川)はこの辺りから緩やかにカーブを描き、南に流れる北十間川に合流する。

カラオケ演歌ニュー東京を過ぎたら、その先の茶色の建物の角を左に曲がり、墨田区立押上公園(墨田区立わんぱく天国)の南を通過して、そのまま北十間川を目指す。

ここは旧町名では既に向島押上町に入っている。左側は南葛飾郡吾嬬村大字請地字古川端に変わりなく。


この道を真っ直ぐ行く。


墨田区立押上公園、墨田区立わんぱく天国の南側に来た。墨田区はガキンチョのために冬になるとどっか雪国から雪を持ってきて、ここで雪合戦をやらせたりする。

奥に見えるのが北十間川。新あづま通りの2本西の道を来た古隅田川(請地古川)は先程のニュー東京の所で流れを変えて、北十間川と合流していた。


ってことでここが北十間川との合流地点。古隅田川で「請地古川」と呼ばれたのはここまで。

忘れないでほしい。これは請地古川の川跡を追いかける小旅行ではない。あくまで武蔵国と下総国との国境をなぞるものだ。

さて、旧国境はこの合流地点でも北十間川の北側と南側とで存在する。その後、旧国境はこの先の十間橋を潜り、その後すぐに90°角度を南へ変え、今度は横十間川という川の西と東できっちり存在する。


江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。