北十間川・横十間川

北十間川十間橋上。立ち位置は南方の武蔵国側。業平五丁目に入ったところ。

写真中央辺りの右側が横十間川の最初の橋、柳島橋だ。


指が写っちまった…。

横十間川柳島橋上。あともうちょっとで終わると思って油断したら指が写っちまった…。橋の西詰には柳嶋妙見山法性寺がある。

なおここから、右側は墨田区業平五丁目、左側は江東区亀戸三丁目になる。昔の地名だと、右は柳島元町、左は南葛飾郡亀戸村大字柳島字砂原。

そう、左側は江東区となった。江東区は旧深川区と旧城東区が1947(昭和22)年3月15日に合併して成立した。旧深川区は1878(明治11)年11月2日に、旧城東区は1932(昭和7)年10月1日に成立。

江戸時代より横十間川以東の町屋部分は本所の一部だったが、1889(明治22)年5月1日の東京市発足の際、横十間川以東だからということで機械的に南葛飾郡亀戸村に編入されてしまった。

東京市を成立させるにあたり、嘗ては江戸町だったのに郡部に編入させられてしまった地域は本所亀戸町ばかりでない。千駄ヶ谷町下谷通新町等々、市域境界線ぎりぎりの地域ではこのような悲劇が起こっていた。

とくにこの亀戸、天神様の氏子は本所の各町だ。役人がどれだけ偉いか知らないが、ちゃんと調べてから色々やれっていうんだよ。…というのは感情論。真相は次に書こう。


亀戸という地域は全域「亀戸村」という農村地域だった。しかし亀戸天神が1661(寛文元)年に創建されてから一部が本所亀戸町という町屋となった。亀戸村の中にまだらに本所亀戸町が存在するという感じだ。横十間川左岸には本所亀戸町亀戸境町亀戸清水町という各町が生まれ、竪川北岸にも深川北松代町四丁目南本所瓦町中之郷五之橋町小梅五之橋町という町屋が存在していた。そしてそれらの町々は本所区成立後も町丁として存続していた。

横十間川の東西には文化的な違いはなく、双方仲良くやっていた。現在でも「錦糸町亀戸副都心」として2町は連立している。「どっちも中途半端だから2つで一人前なんじゃないの?」とか言ってる半チクは豆腐の角に頭をぶつければいい。そう、亀戸天神を中心に、錦糸町亀戸は切っても切れないそういう関係なのだ。

しかし東京市成立の際、この横十間川の左右で本所亀戸町等はばっさり切られてしまったのだ。融通の利かない、地域のことを何も知らない、そういう田舎役人の所業だったのか?

感情的に見ればたしかにそういう見方もあるだろう。しかし忘れてはいけない。今日俺は何をしに来ている?あなたは首都高速6号向島入口の最初の写真から何を見て来ている?

そう、武蔵国と下総国の国境を辿っているんじゃないか。そう、ここは旧国境線なのだ。だから東京市最東の極限決定はあくまで古隅田川だったわけだ!町の連立性を考えると非情とも思えるこの線引きだが、そういう理由があったわけだ。


横十間川栗原橋上に来た。ここは春日通り。春日通りは江戸時代、北本所割下水だった。

右の地名は墨田区横川五丁目となった。左は江東区亀戸三丁目。昔の地名だと、右が柳島横川町(自転車のおじさんがいるところよりちょっと南は「柳島春秋町」と呼ばれたこともあった)、左が南葛飾郡亀戸村大字柳島字砂原。

「押上」同様、「亀戸」という地域は飛び地がたくさんあった。墨田区江東橋四丁目辺りも古地図を見ると「亀戸村」と書いてあるものがある。その後、深川北松代町の一部となり、その後本所松代町と改称されたが、そのように昔は相当ぐちゃぐちゃだったわけだ。

で、東京市成立の際は「旧国境を守ろうじゃないか」となったわけだね。本所松代町四丁目なんて、横十間川の東にあるってことで「南葛飾郡亀戸村大字松代町四丁目」という訳の分からない住所にされてしまった。横十間川以西は、本所区本所松代町一~三丁目なのに。


横十間川天神橋上に移動。

ここは蔵前橋通り。左に行くと亀戸天神がある。

右の地名は墨田区太平四丁目となった。左は江東区亀戸三丁目。昔の地名だと、右が柳島横川町、左が南葛飾郡亀戸村大字亀戸町(その前は江戸町として本所亀戸町だった)。

亀戸天神は亀戸にありながら亀戸の鎮守ではなく、本所を見守っているんだ。じゃあ亀戸の鎮守はっていうと亀戸天神のすぐ隣にある香取神社なんだな。だから江戸期に町屋だったところは横十間川から東に位地していても本所地域だったってわけ。

だから大変なんだよ、亀戸天神の大祭や神社神輿のときは。

なお、墨田区江東橋四丁目(旧本所松代町一~三丁目)の御神輿は横十間川の東側の江東区亀戸一丁目(旧本所松代町四丁目)からスタートする。区が分かれても「松代町」としての連帯は守られているってことだ。嘗ては御旅所が横十間川の東側にあり、その東西を渡す橋が今も架かる旅所橋なんだよね。


横十間川錦糸橋上に来た。この橋は隣の橋から見ると本当に見事な太鼓橋。

ここは北斎通り。北斎通りは嘗て南本所割下水だった。

右の地名は墨田区錦糸四丁目となった。左は江東区亀戸二丁目。昔の地名だと、右が柳島町、左が南葛飾郡亀戸村大字亀戸町


横十間川松代橋上に来た。

ここは京葉道路(国道14号)。右に行くと錦糸町駅、左に行くと亀戸駅。目下、水辺ギリギリのところを歩ける散策道の造成工事中。

右の地名は墨田区江東橋四丁目となった。左は江東区亀戸一丁目。昔の地名だと、右が本所松代町三丁目、左が南葛飾郡亀戸村大字亀戸町

えー、ここから先は省略する(スマホの充電切れのため)。

あとはひたすら昔は古隅田川だった横十間川を南下するだけ。川はこの後、旅所橋、清水橋、本村橋、大島橋、小名木川クローバー橋、三島橋、岩井橋、海砂橋、千砂橋、豊砂橋の下を南下する。


鉄道線路北側から北十間川合流地点までは古隅田川(請地古川)流路の上を移動したから、道程と流路は同一。ってことで、色分けはしてない。


この先の写真は撮ってないが、とにかくこの川の中央が旧国境であることは揺るぎない事実なのだ。右岸側はもともと武蔵国の地域、左岸側こそが利根川東遷事業の際に下総国から武蔵国に編入された地域。

なお、今の横十間川は豊砂橋の南からほぼ直角に西に曲がっていくが、古隅田川時代は真っ直ぐ南下していた。つまり、西友東陽町店(江東区東陽四丁目12番30号)、居酒屋大学(江東区東陽四丁目1番23号)、ファミリータウン東陽B棟(江東区東陽二丁目3番)のある辺りを通って東京湾に注いでいたのだ。そう、そこが当時の海岸線だったからね(塩浜の埋立は1914(大正3)年)。

ここが嘗ての国境である証拠として、この横十間川の右側は竪川以南で言えば全てが深川(本村町上大島町東扇橋町海辺町千田町豊住町東平井町)であり、左側はこの場所から全て南葛飾郡(亀戸村、大島村、砂村)なのだよ。

歴史学者は当然、旧国境について詳しいはずなんだろうになぁ…。「両国橋=旧国境に架かる橋」なんていう誰が言ったか分かんないトンチキなフレーズが頭にこびりついちゃって思考停止になってんのかね。


江戸は確かに拡がった。最初は麹町や神田、日本橋、京橋だけだったのに、人口増加と再三の出火で。で、下谷や浅草にも芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷にも拡がった。さらにそれまでは「川向う」と呼ばれて蔑まれていた湿地帯にも開発の手が及び、本所・深川という名前で呼ばれるようになり、そこも江戸の仲間入りを果たした。そう、江戸が拡がって本所・深川も江戸とされたんだ。

でも「新しく江戸にされた」のであって、本所と深川は地理的には最初から武蔵国なわけだよ。最初は豊島郡、その後は葛飾郡。で、不思議なことに、江戸って町になると郡から抜かれちゃうわけだよ。まぁ税と取締まり上の都合だったわけだけど。


で、ここは以前やった「砂村隠亡堀「戸板返し」の位置を疑ってみるツアー」を復習してほしい。

江戸の墨引内には火葬場を置いてはいけなかった。いや、当初は墨引はなかったから、町奉行の支配下である繁華なところと言った方がいいか。

だからまだ深川がうら淋しい地域だった当初は霊巌寺に火葬場を置いていた。しかし、江戸が膨らんだ。「隅田川以東も江戸にする」となったわけだ。で、ここが重要。「一番東はどこか」っていう話。ここを言わないからややっこしくなる。

それは最初は大横川だったんだ。だから火葬場は霊巌寺から扇橋付近に在った極楽寺という寺に移った。大横川から東に移されたわけだ。

しかしその後またもや江戸が拡大される。そうなったらまた火葬場を移転しなくてはならなくなった。それはどこかと言えば、「砂村隠亡堀「戸板返し」の位置を疑ってみるツアー」でやったとおり、横十間川以東だ。新しい焼き場は横十間川を遙かに越え、旧中川にほど近い荻新田という村の蓮光寺なのだ。

こうして江戸は段階的に拡がっていったわけだけど、この江戸の拡張と下総国葛飾郡だった横十間川以東が利根川東遷事業後に武蔵国葛飾郡として武蔵国に編入となったこととを混同している輩が非常に多いのだ。


いいかな、「江戸」とは武蔵国内にあった特別区域なだけだよ。

①1657(明暦3)年 明暦の大火が起こる

  本所・深川の開拓が検討される

②1659(万治2)年12月 両国橋完成

③1660(万治3)年 本所・深川の開拓開始

④1667(寛文7)年 開拓がほぼ終了

後の概念上の墨引内に当たる繁華な地域としての江戸の最東は大横川。つまり当初は大横川から横十間川までの部分(ちょうど錦糸町を中心に南北)は武蔵国ではあるが、概念上の朱引内でしかなく、地名も武蔵国葛飾郡の村だったわけだ。

繰り返すが国境は横十間川の中央だ。今回は江戸境の話はしていない。武蔵と下総の国境の話をしている。


江戸の東端 ≠ 武蔵国の東端


⑤利根川東遷事業終了により、1683(貞享3)年若しくは寛永年間(1622~1643)年に太日川(現・江戸川)より西の地域を下総国から武蔵国へ編入。

↑ これは今でいう江戸川区や葛飾区、江東区の亀戸や大島等を千葉県から東京都に移管したっていう話。ただここには「西の地域を」と書いてあるだけで、その最東を書いていない。これをみんなが今の隅田川だと思っているから混同するんだ。一番東は今の横十間川が正解なんだよ。そこが武蔵国葛飾郡と下総国葛飾郡の境なんだから。

⑥横十間川以東も武蔵国となったため、今の旧中川右岸までが徐々に徐々に江戸となっていく。

これで整理がついたと思う。それ以上言うことはない。とにかく隅田川の両国橋の真ん中が旧国境なのではないのだ。それは覚えてほしい。


それと「江戸話」で余談にはなるが、現在の江戸川区や葛飾区が下総国から武蔵国に編入されたことは事実だ。しかし江戸が消滅する1868(慶應4)年7月まで一度たりとも江戸の内になったことはない。つまり最後の最後まで旧中川から東は江戸ではない。当然江戸じゃない地域が「下町」であるわけがない。

『男はつらいよ』や『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に引っ張られてはいけない。彼の地は江戸情緒っぽい匂いが今なお残っている、下町っぽい雰囲気が漂っているだけであって、一度も江戸になったこともなければ下町でもないのだよ。そう、


下町の東端 ≠ 江戸の東端 ≠ 武蔵国の東端


というのはついぞ変わらなかったんだ。

とまぁ、とにかく時系列に話せば解る話なんだよね…。

今日はここでおしまい!


―了―


最後に牛島の締切(首都高速6号向島線入口)から北十間川十間橋まで道程(川程)を江戸期の地図と現代地図を3つに分けて並べておこう。


①牛島の締切(首都高速6号向島線入口)から曳舟川(曳舟川通り)まで


②曳舟川(曳舟川通り)から北十間川合流地点まで


③北十間川合流地点から横十間川栗原橋辺りまで


しかし、すっごいページがあったもんだ。

知識・教養以外に技術と根気もあるんだなぁ…。

純粋に尊敬します。


江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。