【神田①006】神田紺屋町

町番号:神田①006

町名:神田紺屋町

読み方:かんだこんやちょう Kanda-Konyachō

区分:町丁

起立:江戸期

廃止:存続

冠称:1911(明治44)年5月1日~1947(昭和22)年3月14日を除き「神田」

現町名:千代田区神田紺屋町、鍛冶町二丁目

概要:慶長年間(1596~1615)、徳川家康より軍功として関八州及び伊豆の藍の買付けを許された紺屋頭土屋五郎右衛門の支配した町で、藍染職人が集住していた(東京地理志料)。承応年間(1652~1655年)頃、一~三丁目があった。天和年間(1681~1684年)、南側が上地・火除地となり代地が与えられた(1719(享保4)年とも)。幕末には神田堀と藍染川の間に一~三丁目があり、藍染川と神田川の間に神田紺屋町代地が3ヶ所(元乗物町代地続地・神田紺屋町三丁目続地・市橋下総守屋敷続地)、二丁目代地(俗に「藤十郎新道」)、二丁目横町(俗に「餌鳥助成屋敷」)、二丁目横町蔵地、三丁目代地、三丁目上納地があった(備考・切絵図)。現在、神田紺屋町が神田北乗物町に挟まれて南北2箇所に分かれているのはそのためである。

江戸を代表する藍染めの浴衣と手拭の大半は、当町一帯の染物屋で染められた。「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、当町の名物が江戸の名物でもあった。「場違い」という言葉は、紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来するそうだ。なお、藍染川は幅一間(約1.82m)ほどの小川で、染物の布を洗い流していたことからそう呼ばれるようになった。『狂歌江都名所図会』には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄なり」等の歌が詠まれた。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年、一・二丁目・同代地・二丁目横町の一部、神田岸町飛地を併せ神田紺屋町に、一丁目代地の一部は東松下町東紺屋町二丁目横町の一部は岩本町、二丁目横町蔵地は美倉町、三丁目は東紺屋町、二丁目代地は北乗物町、三丁目代地は神田元柳原町、三丁目上納地は神田材木町となった。町は北乗物町を挟み、南北2ヶ所となった。1872(明治5)年の戸数452・人口1,775(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府神田区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市神田区に所属。

明治時代後半の東京を描いた『風俗画報』は、この界隈の景観について「……其の晒らせし布は概ね手拭染にして……晴天には、いづれ晒らさぬ家もなく、遠く之を望むに、高く風に翻へりて、旗の如く又幟の如く、頗ぶる美観なり」と書き、藍や紺の手染めの布が、恰も万国旗のように町を彩っていたと伝えた。

1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、一部を鍛冶町二丁目に編入。1943(昭和18)年7月1日、東京都神田区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都千代田区に所属。

1947(昭和22)年より現行の神田紺屋町となる。

撮影場所:神田紺屋町

撮影地:千代田区神田紺屋町41番地(興産信用金庫本店)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。