【本所①008】本所緑町

町番号:本所①008

町名:本所緑町 一~五丁目

読み方:ほんじょみどりちょう Honjo-Midorichō

区分:町丁

起立:1688(元禄元)年

廃止:存続 「緑」として

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本所」

現町名:墨田区緑一~三丁目、亀沢一~三丁目

概要:明暦の大火により本所一帯の開拓整地が行われた。一~三丁目は1688(元禄元)年に浅草御蔵の火除用地ができたために収公され、移転してきた浅草天王町浅草旅籠町二丁目、浅草御蔵前片町浅草三好町の代地として起立。四・五丁目は1661(寛文元)年に御用地として収公された村松町一・二丁目の代地として与えられたものに、1688(元禄元)年、浅草旅籠町二丁目のもう1つの代地が、1697(元禄10)年には呉服町の代地が当地に与えられて起立。その余り土地は武家地となった(備考)。

本所の地は道路が碁盤目上に走り、町屋や武家屋敷が整備された。墨田区立緑町公園一帯は、墨田区地域では唯一の上屋敷である弘前藩津軽越中守の屋敷があった。現在の墨田区立緑町公園・野見宿禰神社・墨田区立緑町図書館を含む一帯で、京葉道路から本所南割下水まで、7,916坪もあったといわれる。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、陸奥弘前藩津軽家、伊勢津藩藤堂家下屋敷等の武家地を合併。同年の戸数663・人口3,135(府志料)。菓子商、飲食店が多かった(買物独案内)。

明治時代に入ると、現在の北斎通りにあたる本所南割下水までが本所緑町として扱われることとなった。なお、墨田区立緑町公園は、総武線の高架線を挟んで南北に分かれている。

1878(明治11)年11月2日、東京府本所区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本所区に所属。墨東歌舞伎のメッカともいえる寿座が1881(明治14)年6月に五丁目(現・三丁目)から二丁目に移転(現・緑二丁目16番)。しかし本格歌舞伎には入場者が少なく、助高屋高助の「狐静」の演目に対して「本所へたった一幕すけ高屋、中は静でこんこん」との狂歌まで出来る始末であった。それでも1892(明治25)年の改築期限がくるまで続いた。1898(明治31)年5月、付近の有志が廃絶を惜しみ、共同出資して二丁目の緑町公園の一角に再開場させた(画報)。木造2階建(224坪)。毎月2回の興行であった。その後、震災で焼失し、再建されたが、戦災によりその幕を閉じた。

1929(昭和4)年、帝都復興計画の一環により、一丁目に亀沢町一丁目の一部と相生町五丁目全域を併せ一丁目と、二・三丁目を二丁目と、四・五丁目を三丁目と、本所花町本所入江町本所永倉町の一部、本所長崎町の一部を併せて四丁目とした。また、本所南割下水から総武線のガード部分までは亀沢町一~四丁目に編入。1943(昭和18)年7月1日、東京都本所区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都墨田区に所属。

1967(昭和42)年5月1日、住居表示の実施により、本所緑町一~四丁目は緑一~四丁目となる。現在の二丁目21番は、子供向け戦争文学の記念すべき作品といえる『ガラスのうさぎ』の著者・高木敏子が育ち、ここで戦災に遭っている。

※なお、本所緑町五丁目と本所花町の境界が、三ツ目通りとなった時期が正確には不明である。どこかにそれを著した書物はないものか。

本所緑町五丁目は、『嘉永新鐫本所繪圖』(1855(安政2)年)やアプリ『大江戸今昔めぐり』では、三ツ目通りを挟んで両側町となっており、本所花町はその東に存在する。

しかし、『安政江戸近郊図』(1857(安政4)年)では、『嘉永新鐫本所繪圖』や『大江戸今昔めぐり』では三ツ目通りの東の本所花町と分け合っていた1区画にも「五」と書かれていた。また、逆に『安政江戸圖』(1859(安政6)年)、『萬延江戸図』(1860(万延元)年)、『懐寳御江戸繪圖』(1861(文久元)年)、『明治二年東京全図』(1869(明治2)年)においては、三ツ目通りより東には本所緑町五丁目がなかったことになっており、全て「ハナ丁」とある。

江戸末期のものもそうだが、明治は中期になっても、題名に「明細」や「精測」とは謳っているものの、実にいい加減なものばかりで、それでも余りあてにならない地図をかなり多く見ていったが、見れば見るほど混乱を来す。たとえば、『繪入東京御繪圖』(1881(明治14)年)などは、今の区役所通りに三之橋が架かっていたことになっているし、他の地図でも「ハナ丁」が三ツ目通りより西に位置するものも複数存在するなど。

そこで、以前から他のものよりも信頼を寄せている『東京全図(1879(明治12)年)』を見ると、三ツ目通りより東の部分に『嘉永新鐫本所繪圖』や『大江戸今昔めぐり』と同様に「同五丁目」とあり、その1区画を本所花町と分け合っていた。これは『東京全図』が細かなところまで略さずにきちんと書いている証拠であると判断し、ここを基準に考えた。

『東京全図』の後に出版された地図を見ていくと、『改正區分東京細圖 : 全』(1881(明治14)年)では、三ツ目通りより東は「本所花丁」と、『改正東亰繪圖』(1881(明治14)年)でも「ハナ丁」…。以下省略するが、それ以降に出版された地図にはどれも、三ツ目通りから東のその1区画を本所緑町五丁目と本所花町が分け合っているものを見付けることはできなかった。こうして、番地入りで出版された『明治四十年一月調査東京市本所區全圖』(1907(明治40)年)や『携帯番地入東京區分地圖 : 本所区之部』(1910(明治43)年)に辿り着くまで、三ツ目通りから東には本所緑町五丁目は完全に存在せず、本所花町のみの記載となっていた。

したがって、本所緑町五丁目の三ツ目通りより東の部分が本所花町に吸収されたのは、「1857(安政4)~1859(安政6)年までに」と仮説を立てて各地図を年代順に見ていったが、結論としては、信頼をおく『東京全図』ではまだ江戸期同様、三ツ目通りより東の部分に本所緑町五丁目が書かれていたので、それが出版された(1879(明治12)年)内、またその翌年の1880(明治13)年前後に本所緑町五丁目と本所花町の境界は三ツ目通りとなったと考えられる。

考えてみれば、深川区深川北松代町一~四丁目が本所区に移管され、本所区本所松代町一~四丁目となったのも、1880(明治13)年である。15区が成立し、その後、細かい町域変更が行われる際に、本所緑町五丁目と本所花町は町域の変更を行ったと考えるのが自然なのかもしれない。

撮影場所:本所緑町一丁目

撮影地:墨田区亀沢一丁目3番13号(宝パーキング)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。