【本所①046】本所林町

町番号:本所①046

町名:本所林町 一~三丁目

読み方:ほんじょはやしちょう Honjo-Hayashichō

区分:町丁

起立:1688(元禄元)年

廃止:1933(昭和8)年

冠称:1911(明治44)年4月30日まで「本所」

現町名:墨田区立川一~三丁目、菊川一・二丁目

概要:竪川南岸の地域。町名は江戸期の一丁目南裏通りに1804(文化元)年まで居住していた旗本・林氏に因む(備考・葛西志)。江戸期の当町は一~五丁目、一丁目横町、五丁目横町矢場屋敷跡があった。一~四丁目は1685(貞享2)年、浅草瓦町浅草森田町、浅草御蔵前一・二丁目、浅草御蔵前旅籠町二丁目、浅草御蔵前三好町の各東側の地が収公されたため、1688(元禄元)年に代地として与えられ、新たに「本所林町」の名で起立。五丁目は、もと桑島内蔵助の屋敷地だった所で、1696(元禄9)年、本丸同朋衆の拝領屋敷となり、四丁目の続地であることから五丁目となった。

一丁目横町は1693(元禄6)年の新大橋架け替えの時から橋辻番人の拝借地だった所で、1744(延享元)年に新大橋が町管理に移った時に預り地となり「御用屋敷」と称した。町名は安政切絵図によれば、五間堀の北、万徳山弥勒寺の東の本所林町一丁目横通にあることから名付けられたもので、地形が着物の襟に似ていることから「襟形町」とも「入片町(入形町)」ともいった。五丁目横町矢場屋敷跡は、五丁目の南、越後新発田藩溝口家下屋敷の東にあり、1700(元禄13)年から弓の演射場だった所で、1713(正徳3)年に本所深川道役の預り地として町屋が建てられた。

元禄赤穂事件、堀部安兵衛が住んでいたのが五丁目(現・立川三丁目15番付近)。杉野十平次宅も隣の本所徳右衛門町一丁目(現・立川三丁目16番辺り)。吉良邸討ち入り当日の集合場所については諸説あるが、五丁目の堀部安兵衛宅であることは間違いないようだ。13日から降り出した雪の中を八つ(午前2時)に、浪士たちは堀部安兵衛宅へ集まる。そして七つ(八つとの説もある)、本所松坂町の吉良邸に向かって出発した(但し、降雪は前日までで決行日は晴れとの話もある)。なお、堀部安兵衛宅は墨田区立安兵衛公園となっている。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1869(明治2)年から1872(明治5)年にかけて、江戸期の一~五丁目と両横町を一~三丁目に再編。新しい一丁目は、一丁目と一丁目横町本所十軒町(もと俗に「大久保新道」又は「本所二ツ目」といわれた小浜盛之助邸、大久保嘉平沿邸当の武家地と弥勒寺の寺地)を合併して成立。新しい二丁目は、二丁目と三丁目、黒鍬組屋敷、美濃加納藩永井氏中屋敷、武蔵岡部藩安部氏邸他の武家地を合併して成立。新しい三丁目は四・五丁目、五丁目横町矢場屋敷跡と、俗に「本所三ツ目」と称した越後新発田藩溝口氏下屋敷・奥州泉藩本多邸等の武家地を合併して成立。

1872(明治5)年の戸数668・人口2,442(府志料)。1878(明治11)年11月2日、東京府本所区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本所区に所属。

1933(昭和8)年、帝都復興計画の一環により、竪川一~三丁目、菊川一・二丁目に編入となり消滅。現行の立川一~三丁目、菊川一・二丁目のうち。

撮影場所:本所林町一丁目

撮影地:墨田区立川一丁目4番13号(弥勒寺)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。